ひとめぼれマジック
洋服でも靴でも帽子でも、お店で見て「ステキ!」と思ったら、買ってしまうことがある(ただし、値段がそれほど高くない場合に限る)。
そして、家に帰って、改めて身につけてみると、実はそれほど似合っていなかったりする。似合っていないというか、手持ちの洋服などと合うものがなく、結局、買った日以外に身につけるタイミングを失って、タンスの肥やしになる。
そうやって買ってしまう理由は「ひとめぼれ」なのである。
ひとめぼれというのは、後先を考えない。
お店で見て「ステキ!」と思っても「待てよ……。これって、私が持ってるモノと合うかな?」と、ちょっと考えれば買わずに済むものを、ひとめぼれだから後先を考えずに買ってしまう。
それに似たようなことが、以前、旅先であった。ひとめぼれしたものは、私にしては珍しく、洋服でも靴でも帽子でもなく、焼き物だった。
それは、まだコロナ禍だった2022年11月のこと。ふとしたきっかけから、沖縄へ行くことになった。沖縄は私にとって、20代から30代を過ごした第二のふるさとである。
沖縄といえば、青い海と青い空、白い砂浜を思い浮かべる方も多いだろう。「第二のふるさと」と思っている私もやっぱりそうで、沖縄に行けば必ず、青い海をボーッと眺めながら、オリオンビールを飲む時間をつくる。
だがしかし……。私が沖縄に到着した日は、あいにく曇り空で、青い海!という感じではなかった。
そこで、那覇市内をぶらぶらと散策することにした。
まずは空港からモノレールに乗り、首里城へ。そして、首里城から国際通り方面を目指して、のんびり歩くことにする。
「首里城から国際通りまで歩く」なんて、沖縄に住んでいた頃には考えられなかったし、おそらく今でも、沖縄に住んでいる人たちにとっては「マジか~!」と言われると思う。沖縄は車社会だから、長い距離を歩く人はまずいない。
それができるようになったのは、私が東京に住むようになったからだ。東京では「駅から目的地まで歩く」というのが普通だし、新宿や渋谷のようなターミナル駅は駅構内が広すぎて、ものすごく歩かなくてはならない。当然、歩くことに慣れてしまう。
我ながら、東京暮らしに慣れたのだなぁ、と思いつつ、首里のまちをてくてく歩いた。途中、沖縄そばを食べたり、沖縄のぜんざいを食べたりしながら、気づけば3時間以上もぶらぶら歩いていた。
ふと、道路の標識を見ると、左向きに矢印がのびていて「壺屋」という地名が見えた。国際通りへ行くには、その道路を真っ直ぐに進めばよかったが、別に急いでいるわけでもないので、ちょっと寄り道のつもりで、壺屋を目指した。
那覇市壺屋には「やちむん通り」という、焼き物の工房が並ぶ通りがある。「やちむん」というのは、沖縄の言葉で「焼き物」のことだ。
自分でいうのもなんだが、私は焼き物に詳しくない。食器売り場に行って、いろんな焼き物を見て「ステキだなぁ」とは思うものの、普段は100円ショップで買った真っ白いお皿ばかり使っている。洗い物をしているときに手がすべって、皿やグラスを割ってしまうことがあるから、高いものは買えないのである。
だから、焼き物は本当に「見てるだけ」の、つもりだった。
通りには、いろんな工房の直売所や、それらの工房から仕入れた焼き物を販売する店が軒を連ねている。私は、店先のいろんな焼き物を見ながら、いつも食器売り場で見て回るように「ステキだなぁ」と思っていた。
ぶらぶらと通りを歩きながら、ふと、とある直売所の店頭に並んでいた、細長いカップに目が釘付けになった。
それは、まるで沖縄の青い海を、そのまま焼き物にしたような色だった。
私は足を止め、そのカップを手に取った。青いカップは、マルチカップというらしい。ビアグラスのような形をしているので、ビールを注いでも、お茶を注いでも、なんならコーヒーでもよさそうだった。欲しいなぁ、と思った。
店の中をのぞくと、そのカップ以外にも、青い色の焼き物が見える。私はそのカップを手に持ったまま、ふらふらと店内に入っていった。
「いらっしゃいませ」
店の奥には、50代くらいの女性がひとり、座って店番をしていた。私が手にカップを持っていたので、すぐに会計をすると思ったのだろう。立ち上がってニコニコしている。だが、私は彼女に向かって、こう言った。
「あの~。他のものも見せてもらっていいですか?」
「ええ、もちろん。どうぞ、ごゆっくり。それ、お預かりしましょうか?」
言われるがままに、手に持っていたカップを店員さんに渡した。渡してしまった。欲しい、とは思ったが、買うつもりは全くなかったのに。
今考えれば、この時点ではまだ「やっぱり、買うのやめます。すみません」と帰ることもできたと思う。でも、このときの私は、そのカップ以外の青い焼き物が気になって気になって仕方がなかった。カップを預けて、青い焼き物が並ぶ棚の前に立った。
そこには、沖縄の青い海をそのまま焼き物にしたような作品が、いくつも並んでいた。
コーヒーカップとソーサーのセット、小皿、大皿、先ほどのマルチカップと似ているが、少し形が違うもの……。職人の手づくりだから、ひとつひとつ微妙に色が違う。でも、どれも美しい青色だ。
ああ、どれも欲しい。買って帰りたい。
そう思ったが、そう思ったら、逆に現実的になった。どれを買う?どれならウチで使う?
私は毎朝、コーヒーを淹れて飲むが、マグカップ派なので、カップとソーサーのセットはたぶん使わない。小皿や大皿は、100円ショップで買ったものが何枚もあるし……。
あ、これなら!そう思ったのは、少し大きめの丸鉢だった。煮物を盛りつけても、炒め物を盛りつけてもよさそうだった。
そこまで考えて、はじめて値段を見た。丸鉢は約3,500円だったと思う。先ほど、店員さんに預けてしまったマルチカップと合わせると、約5,000円。普段、食器を買うのは100円ショップという私にとって、なんと50倍もの価格である。
ところが、このときだけはマルチカップと丸鉢を合わせて約5,000円という値段が気にならなかった。沖縄という旅行先だったせいもあるかもしれないし、コロナ禍で観光客が激減していたから、壺屋焼きのお店もきっと大変だろうという思いも、少しはあったのかもしれない。
けれども何より、そのカップと丸鉢の青い色にひとめぼれしてしまったのである。とにかく、これを買って帰らなくてはならないような気がした。
ひとめぼれだったが、洋服とも靴とも帽子とも違うことがあった。それは、焼き物だったことと、買う前に「どれならウチで使う?」と考えたことだ。
だから、沖縄の青い海をそのまま焼き物にしたようなカップと丸鉢は、今、わが家の「タンスの肥やし」にはなっていない。煮物を盛りつけたり、炒め物を盛りつけたり、パスタを盛りつけたりと、大活躍である。
ただし、あのとき、沖縄から戻って最初に盛りつけたものは、焼いもだったけれど。
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