スベっる心理学1〜察せない男子編〜(長編小説)
「……さっ、坂本くん、なっ、なにをしとるんだ!?」
平社員である坂本元気(サカモト・ゲンキ)にとって、雲の上の存在、いや、それよりも遥か彼方の、北斗七星のさらに先の存在である創業社長、池沼武夫(イケヌマ・タケオ)は来客用のソファーに座ったまま、目を丸くして元気を見て言った。
「なにをしとるって、なにがですか?」
元気には、もちろん池沼の驚きが自分に向けてのものだということは分かっていた。
しかし、それがサーカスを観るときのような称賛なのか、歴史的に名高い絵画でお尻を拭いてしまったときのような、持ち主の茫然自失の顔なのか、彼には理解出来ないでいる。
「そっ、その手! 佐々木様のお茶!」
「その手とは、この左手のことですか!? こっ、この手は茶柱をキメていました」
「――はぁ!? あっ、失礼致しました」
池沼は大切な取引先の前で不適切な言葉を発してしまったことを詫びた。
「茶柱がどうかしたんですか?」
佐々木は、自分が飲むはずのものに手を入れた、不思議な人物に向かって尋ねた。
「はい、茶柱が少し斜めになっておりましたので、完全に立ててキメておきました」
元気は、“灰皿に吸い殻がいっぱいになっていましたので捨てておきました”と同じような感覚で、さぞ自分が佐々木のためを思って良いことをしたという認識でいた。
「……お湯の中に手なんか入れて、熱かったでしょうに」
「いえいえ、佐々木様のことを想うと、このくらいの熱さなんのその」
「……」
佐々木の皮肉混じりであろう言葉に元気は察することが出来ず、満面の笑顔で右手で握りこぶしを作り、ガッツポーズをしてみせた。
「それはありがとう……」
佐々木はひきつった笑顔でお礼を言った。
池沼はすかさずフォローに入ったが、微妙な空気が変わることはなく、この日の商談を終えた。
佐々木が、人工的に茶柱の立てられた縁起物に口をつけることはなかったのは、言うまでもない。