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バンコク黙示録2010(3)

2010年5月9日あたりのバンコク

 5月9日もサラデーンに行くが、歩道を一応封鎖してあった鉄条網も脇にどかされ、ルンピニー公園の周りには、赤シャツ隊の自警団がチュラロンコン病院に侵入したことを詫びる旨が印刷された垂れ幕がかかっていた。
 この件について簡潔に述べると、赤シャツ隊自警団を率いるセート・デーン(あえて訳せば「赤の参謀」)ことカッティヤ・サワディポン少将が部下に命じたのだが、それを穏健派代表のナタウット氏が公式に謝罪したという経緯がある。

 つまりタカ派の尻拭いをハト派がしている、ということなのだが、赤シャツ隊も一枚岩でないところに不安定要素を感じさせた。ちなみにイサーン人ばかりだと思われがちな赤シャツ隊だが、少なくともカッティヤ少将は中部出身でイサーン人ではない。 

 今更ながらイサーン(タイ東北部)とバンコクの関係について説明をしておくが、イギリスに例えるならイングランドとそれ以外の地方の関係に似ている。日本で知られているイギリスの芸能人の多くがスコットランドやアイルランド出身なのは、少し洋楽に詳しい人なら既に知っていることかも知れないが(ベイビーをベイベエと発音するのはアイルランド訛りだ)、日本で有名なタイ人、すなわちブアカーオ、ウィラポン、ポンサクレックなどのボクサー達もタイ人には違いないがイサーン出身なのだ。
 ではタイのミュージシャン達が地方出身かというと、そういう人もいるが富裕層出身が多いとまとめておく。やはりレスポールのギターやヤマハのシンセサイザーは、タイではまだまだ贅沢品なのだろう。

 ブアカーオの名前が出たついでに少し前のK-1を語ってみると、K-1MAXは魔裟斗を優勝させるための大会だったのは周知の通り。それにアンディ・サワーやアルバート・クラウスといった強豪達は公然と不満を唱えていた。だが、「魔裟斗優先体制」の一番の被害者はブアカーオだった。元々K-1は、クリンチからの投げがポイントに入らないなど、ムエタイ出身者が勝ちにくいルールだった。
 本来ならミドル級のガオグライ・ゲーンノラシンがヘビー級に回されたのも、K-1MAXでの決勝戦がタイ人同士にならないためだったのだろう。

 タイ人選手は勝っても負けても観衆の前で派手なパフォーマンスはやらないし、ストリートギャング上がりだとか、その手の日本人好みのギミックも無い。メディアでの受け答えも優等生的だ。「スポーツとしてはいいが、興行として考えるとタイ人選手が勝つのはちょっと」という運営側の方針で、ブアカーオ選手は「魔裟斗を苦しめる強豪の一人」という役割を担うようになった。

 K-1MAXについて長々と書いたが、魔裟斗をアピシット首相、ブアカーオをタクシン派と考えると分かりやすいと思う。
 これは私見だが、ペトロシアンが骨折してアンディ・サワーが2009年大晦日に行われた魔裟斗の引退試合を務めたということがあったが、ペトロシアンが本当に骨折していたのかどうか、すごく怪しい。

 2006年9月19日のクーデター以降、「勝てないルール」の中で生きてきたイサーン地方を中心とするタクシン派がキレたのが赤シャツ隊と解釈してもらっても間違いではないが、彼らはリンプ・ビズキットやレイジ・アゲインスト・マシーンに触発されたりしない。そういうのを聴くのは飽くまでも「都会のサエた子供達」だ。 


 アピシット首相が好きなバンドは、タイ語ウィキペディアを信じるならばオアシスやビートルズ。日本で言えば演歌や民謡に当たるモーラムやルークトゥンを好む赤シャツ隊と噛み合うはずもない。

 ところで、サラデーン通いをしているうちに気付いたことがあった。アピシット首相をはじめとする閣僚のうち誰一人として現場視察に来ないし、来る兆しもないのである。
「死傷者は私が来る以前から出ているし、警護に当たる兵士や警官の慰労に来てもいいはずなんだがな。日本の首相だってこういう時は顔くらい出すものだが……」

    サラデーンだけではない。アピシット首相は旱魃に悩むイサーンにも現場視察に来ていなかった。その代わり、王妃は陸軍に給水車の派遣を命じていた。私は何故タイ人が政治家を嫌い、軍人を好むのか少しだけ理解した。

    シーロム通りの銀行の前に、黄色いテープで仕切られた一角があった。報道されているかどうかはもはやどうでもいいが、何か事件があったようだ。そこを警護している防弾チョッキを着た警官に、「写真撮ってもいいですか」と言ったら二つ返事で撮らせてくれた。なんとなくだが、救われた気分になった。


警察も軍も警備はものものしかったが、どちらもタクシン派が多かったし、デモ隊との間で小競り合いなどは無かった。

◎2010年5月10、11、12日。そしてカウントダウン

「ビリーさんはなんで煙草を吸うんだ?肺に悪いしガンになるかもしれないのに」
 滞在も長くなり、もはやお互い友達感覚となったホテル従業員のリー君からたまに厳しい質問が出るようになった。英語しか喋らない白人にはそんなこと言わないのに……タイ語学習者の間でよく言われる、「タイ語を喋るほど地位が下がる」という法則発動だ。

 地方ではどうか分からないが、バンコクでは「施設内及び路上での喫煙禁止」がかなり徹底されていた。客に甘いゴーゴーバーですらも「施設内禁煙」。ただし私が泊まっているホテルでは、部屋から出て三畳ほどの「屋外スペース」が設けられていて、「煙草が吸いたければそこでどうぞ」と言われていた。

 2019年の現時点では禁煙して4年目になるが、2010年当時喫煙を止めない理由については、「人はある日死ぬものだから」と答えた。その時彼が、はっとした表情をしたのを覚えている。ただし、前述のようにバンコクでは煙草を吸える場所が限られていたので、自然と煙草を吸う量は減った。
    だが、「なんでタイ料理を食べないんだ?」とリー君から訊かれた時は参った。彼が、「それはタイ民族に対する冒涜である」と言いたげな顔をしていたからだ。今にして思えば、どうして私がタイ料理をあまり食べないのを彼が知っていたのか疑問なのだが、よく行った和食店「天津緬」のウエイトレスに同郷のコがいて、何か情報が回っていたのかもしれない。

 事実、私は今回タイ料理をあまり食べなかった。日本人にとっては量が少ないからというのもあるが、腹が下るのを恐れたから、というのが一番の理由だ。
 だが結果的に腹は下り、薬局で薬を処方された。理由はおそらく、暑い中歩き回って冷房の効いたカフェでアイスコーヒーなどを飲んだから。まあ、下る時は下る、という話だ。

 そんな理由もあって3日ほど大したことはしなかったのだが、新聞は読んでいた。そして10日深夜、ラーチャプラソン交差点の演壇において赤シャツ隊幹部達が、
「アピシット首相及びステープ保安方面担当副首相が4月10日事件(カメラマンの村本さんが狙撃されたのもこの日)の責任者として警察に出頭し、政府側が自分達と同じく容疑者となった時、ただちにデモを解散し、解散及び総選挙の日程を受け入れる」
という、政府側にとって「受け入れたら負け」を意味する要求を発表した。

 ステープ副首相はタクシン元首相も一目置くコワモテで非常事態解決管理センターの所長。そしてアピシット首相と同じく議員不逮捕特権を持っている。しかし出頭せよと言われても警察から逮捕状が出ているわけでもない。そこで彼等はDSI(法務省特別犯罪捜査局)に出頭した。

 だが、赤シャツ隊はそれに満足せず、「身内みたいなところでお茶を濁さず、ちゃんと警察に出頭しろ」的な、かなり無茶なことを言い出し、ラーチャプラソン交差点及びルンピニー公園に居座り続けた。
 当時私は、彼らは数でわがままを押し通そうとしている、位にしか考えていなかった。
 数といっても、タイの有権者数は、全国民6千4百万人のうち4千7百万人(タイ選挙管理委員会の2011年総選挙報告を参考にした概数)。そのうち赤シャツ隊は多く見積もっても10万人。政府がまともに交渉すべき相手ではない、とも考えていた。

 だが今にして思えばこれは、「勝てるルールで戦ってきた側」と「負けるルールを押し付けられた側」の戦いだった。だからといって私は赤シャツ隊の肩を持たない。彼らもまた南部イスラムゲリラ問題など全国的な問題に全く関心を示していなかったからだ。
 5月13日、体調も回復した私は、今日はカオサンに行ってお土産など買い、昼間からビールでも飲もうと考え、プロンポン駅に向かったが、その途中で買った新聞のヘッドラインを見てさすがに動揺した。

「マーク(アピシット首相の愛称)、全てをキャンセル。赤シャツ隊に抗弁。議会解散-総選挙を白紙に」
「非常事態解決管理センター、水道・電気を絶つ計画を実行。出入り口を封鎖するために集結」

 そういえばホテルの人が、「ゆうべ、プラトゥナムとチッドロムに軍が集まっている」と言っていた。

「どうしよう、やっぱり止めておこうか」とも考えたが、ここで引いたらそれまで、との今考えると変な発想で、私はとりあえずサラデーンに行くことにした。15分もいなかったが、「人はある日死ぬものだから」を実証してしまうところだった。

◎2010年5月13日。封鎖直前のサラデーン

 BTSサラデーン駅の改札を出ると、タニヤ通り反対側のシーロムコンプレックスが全面閉館になっていて、階段から下を見下ろすと、テレビのレポーターらしき女性がカメラに向かって喋っている。よく見れば、彼女が立っている後ろに何かが爆発物で壊されたような跡が見えた。

 何があったんですか、と同じく下を見下ろしているタイ人達に聞いても、「よくわからない」との答えしか返って来ない。そのうち、地元の人間と思しき日本語を喋れるおばさんが、「日本人ですか」と話しかけてきたので同じ質問を繰り返したが、「さあ、私にもよくわからなくて」との答えしか返ってこなかった。

 らちがあかないのでタニヤプラザ側に降りる。下り車線でカオサンに向かうタクシーを拾う為だったのだが、警備に当たる兵士達が全員防弾チョッキを身に着けていたので妙な感じがした。
「おかしい。これまでこんなことはなかったが……まあいい、一応写真でも撮っておくか」と思ったが、兵士達の顔を見て止めた。皆思いつめ、血の気の引いた顔をして、とてもじゃないがカメラを向けられる雰囲気ではない。 今にして思う。あれが出撃を命じられた兵士達の顔。映画や漫画で見られるような雄叫びなど無く、葬式の参列者の列のようだった。

 とにかくカオサンに行く、と決めていた私はタクシーを止めたが、運転手のおじさんが「200バーツ」とメーターを使った場合の倍の金額をふっかけてきたので、そのタクシーは見送り、次のタクシーを待つことにした。
だが、下り車線、つまりサイアム方面からはタクシーどころか一般車両もまばらにしか来ない。そして上り車線は大渋滞でほとんど車が前に進んでいない。サイアム近辺で何かやっている証拠だ。

「これではカオサンに行けても帰れないだろう。それにあの兵士達の様子はこれまでと全然違う」

 これはカオサンに行っている場合ではないなと判断した私は空車のタクシーを見送り、写真を一枚だけ撮ってプロンポンに帰ることに。

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