【神奈川のこと30】ビバ!あやせ(綾瀬市)

初めて「五十肩」になり、腕が上がらないが、これを書く。

神奈川県に綾瀬市という街がある。

学生時代は、毎日のようにこの綾瀬市に通った。

授業が終われば、東海大学湘南キャンパスから。何もない日は、鎌倉の自宅から。

社会人となり、東京で働くようになると分かるのだが、一般的に「綾瀬」と言えば、東京都足立区のそれを言う。なんてったって千代田線の終点は「北綾瀬」だもの。

その点、神奈川県の綾瀬市には鉄道の駅が存在しない。一言で言えば、地味な街だ。

鎌倉リトルリーグ時代、よく試合で訪問した。解放感のある広々としたグラウンドと、綾瀬リトルリーグのクリーム色とオレンジ色のユニフォーム。そして広大な畑に囲まれたそのグラウンドには、時折、「田舎の香水」が風に舞ってかぐわしい香りを漂わせていた。

その綾瀬市で学生時代の平成元年(1989年)から5年(1993年)の4年間、学習塾で中学生に英語を教えていた。その名も「Try学習教室」。TVCMしている「家庭教師のトライ」ではない。当時、綾瀬市で2教室を展開する独立系の学習塾で、生徒数はどうでしょう、優に100名以上はあったのではないか。

高校の同級生の家が経営していた関係で、「びっくん、中学生に英語を教えてみない?」と誘われたことがきっかけだ。自身の中学時代、良い先生達との出逢いがあったので、そのお誘いはとても嬉しく、二つ返事で乗った。

大学1年生の時に受け持ったのは、当時の中学2年生。5歳年下だが、大学生と中学生だ。全くもって大人と子供であった。人数は確か6名ぐらいだったと記憶している。それが、3年生になると20名ぐらいまで増えた。

りえ、えつこ、かおり、さおり、なおみ、ひろみ、りか、まさよ、させどん、しゅういち、よしふみ、いつき、ともよし、せいじ、すがぴーと生徒達を下の名前で呼び、塾講師のくせして「勉強だけが全てじゃねぇ。少しでも俺の知っている人生の喜びを伝えたい」なんて、粋がりも甚だしいが、真剣にそう思って、生徒達と向き合っていた。

女子生徒は帰りが夜になるので、塾の車で家まで送った。その車の中で話す、当時お付き合いしていたガールフレンドのことなどに、彼女たちは興味津々で聴いていた。女子生徒の方が、早熟だった。

平日の授業の他、夏期と冬期の各講習もやったし、中2の終わりには、今は無きア・テスト(神奈川県だけで開催していたアチーブメント・テストの略)対策もやった。親御さんとの三者面談も一丁前にこなした。

講師陣も多彩であった。私より8つぐらい年上の塾長以下、皆、兄弟姉妹のように仲が良かった。授業が終われば、飲みに行ったり、カラオケしたり、誰かの誕生日には盛大にお祝いをしたりした。一方で、真剣に生徒のことについて議論したり、悩みを相談し合ったりというプロフェッショナルとしての責任感を持ち合わせていた連中でもあった。カリスマ講師、「日野ちゃん」の生徒達からの絶大な人気と、講師陣に対するリーダーシップが、地元での「Try」の評判を上げ、生徒数が見る見る内に増加した。もちろん、バブル景気という時代背景もあった。

高校受験の当日は、仲間の講師たちと朝、小田急線の長後駅で生徒達を激励した。卒業式は、手作りで卒業証書を作ったり教室を飾ったりして、最後に講師陣全員でキャンディーズの「春一番」を歌った。

青春そのものであった。

今でも、はじめて受け持った生徒達との交流が続いている。年に一度、「Try会」と題して会う。かつての生徒達は今やもう、40代半ばの母であり、父である。話を聞けば、いっぱしの苦労も重ねてきている。しかし、今でもあの時の大学生と中学生の関係は変わらない。当時は憎たらしいと思ったり、けんかもしたが、今はただただ愛おしい存在である。彼らの人生を応援したい。悩みがあったらいつでも相談してほしい。そんな想いだけが胸中にある。

あれから、30年以上の時が経った。まあ、五十肩になってもおかしくないか。青春時代を過ごした綾瀬市にはいまだ鉄道の駅は存在せず、かぐわしい「田舎の香水」が時折、風に舞っていると聞く。





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