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ネコ/スキマを着る


ネコは、なぜ小さな箱とか紙の袋に入ろうとするのだろう。

ネコが、箱に触れる。
紙の袋に触れる。

壁とか人の足元にすり寄るとき は、壁という隔てるものが、皮膚にすり替わる。

壁は皮膚。
飼い主の足はネコの皮膚の延長線にあるもの。

ネコは、狭い箱に触れることで、ネコはネコの輪郭線を引いている。

空間を自己で満たす。
自己を計量するネコ。

スキマは衣装。
スキマを着るネコ。
スキマを満たすことで生まれる、箱という衣装を着たネコ。

そして 皮膚に変化する箱。
皮膚に変化する紙袋。 
ダンボール。
安心できる小さなスキマ。
小さな防護服。
箱男ならぬ、箱ネコの誕生。

ネコは狭いところがすきだから。

ネコは、いつも、箱ネコになりたがっている。


近所で、ネコを飼う人が増えている。山の中で拾ってきたり、保護ネコだったり、ネコと会話している人たちが増えている。私はネコと暮らしたことなないけれど、イヌとは十年近く共同生活した経験がある。近所のネコ達は、全て家ネコで、そのあたりの道で遭遇することもなく、声をかけたり、挨拶することがない。

この頃、ネコ動画をよく見ているので、ネコについて考えてみた。

今、『ファッションって何?ちぐはぐな身体』(鷲田清一著)を読んでいる。144ページの《魂の衣》という箇所が気になっている。

身体の内部から外部に引きずりだされた模様、いわば内側からプリントされた柄については、フランスの哲学者、ミシェル・セールがとてもおもしろい説をたてている。彼によれば、皮膚がそれ自体へと折り畳まれる場所、皮膚の面と面とが接触する場所(たとえば重ねられた唇と唇の間、舌を押しつけたときの口蓋、噛み合わせた歯と歯の間、閉じられた瞼、収縮した括約筋、こぶしを握りしめたときの手、押しつけあった指、組み合わされた腿と腿の間など)に《魂》が誕生するというのだ。そういう《魂》がさまざまな方向に移動し、飛び跳ね、たがいに交錯したり、重なりあったりするときのその運動と軌跡が、波紋のように、あるいはぼかしや渦や紋のように描き出されたものが、ほかならぬ刺青だという。そういう生きたプリントが形式化し、衰弱したものが、現在の布のプリント地なのだろう。

上記にある、皮膚がそれ自体へと折り畳まれる場所、皮膚の面と面とが接触する場所に《魂》が誕生する。。というところに心が動いた。すぐにでも、誕生する《魂》に手が届きそうだ。

〈狭いところに入るネコちゃんについて〉考えていたところなので、そのイメージが、容易にネコちゃんに重なってきた。

ネコが箱に入る。
そこに《魂》がぽっと生まれる。

ネコが移動して、カーテンの裏に入って、布が頭に触れている。そこに、《魂》がぽっと生まれる。移動する度に《魂》が点灯する。。そんな感じだ。

その後の記述に、その《魂》の運動と軌跡を描き出したものが刺青だという説、それが衰弱したもの(この衰弱という表現がおもしろい)が現代のプリント地という考え方に驚きと共に、衝撃を受けた。

その後の文章は、プリント地と刺青の違いについて書かれている。そして次の文章で終わっている。

衣服も刺青も、かつて《魂の衣》としてあった。衣服と刺青は、視覚的なものとして外部からプリントされるのではなく、むしろぼくらの存在の内側から外へ向かってプリントされたものだった。化粧のことをフランス語で「コスメティック」というが、この語は「コスミック」(宇宙的)とともに、ギリシャ語の「コスモス」ということばからきている。化粧も刺青も、ともに体の表面のペインティングとしてあるが、それは僕らの内部環境としての《魂》と外部環境としての宇宙をいきいきと交流させるメディアであった。たんなる自己演出の媒体にしかすぎなくなっている現代のコスメティックとタトゥーの中に、はたしてそういう宇宙の解釈術、あるいは宇宙の感覚器官としてのみずみずしい機能が回帰してくる可能性はあるのだろうか。


とすると、ネコちゃんにとって〈スキマ〉としての箱、紙袋、ダンボールは、《魂の衣》だ。

それは、ネコちゃんの内部環境としての《魂》と、外部環境としての宇宙をいきいきと交流させるメディアなのだ。


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そして、この間、図書館の新刊コーナーで『つかふ 使用論ノート』(鷲田清一著)を借りてきた。


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帰りがけに手に取ったときの印象は、何か変わった表紙だなと思ったけれど、気がつけば、かわいい小動物(名前がよくわからない)が、荷造り用の袋に入っている。それで、使用論ノートなんですね。




* 箱男の本を探したら見つかったので写真に撮りました。

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