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迷い込んだ街 ー 釜山にて

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釜山の旅の記録を書き残します。

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続きです。
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紛失届の手続きを終え、何かに呼ばれる感覚が消えないまま、ホテルに戻り、次の日の帰国予定のビートルのHPを覗くと、ビートルは故障の為に欠航が長引いたと記載されていた。

一夜明け、帰国予定日の早朝、ビートル運営会社へ電話をしても繋がらないので、ステイ先から歩いて10分の釜山港へ直接赴き、ビートルの案内掲示板を確認してみたが、やはり欠航は動かない事実だった。
さらに向こう2週間ほどは、船体検査の為に復活の予定がないらしい。

そこで博多行フェリーカメリアラインの窓口で、帰国便を予約しようとしてみる。
けれど、感染症流行の検閲の都合が絡み、向こう3日間の予約キープは不可能で、さらにその先の日程も日本国内からの予約しかできないということが初めて分かった。
博多・釜山の国際航路も復活し、感染症の終わりが見えたかのように思っていたが、その影響は完全には取り除かれてはいないのだ。
大きな波が引いた後、ある日突然静かな海に戻るわけではなく、波の揺らぎは少しづつ引いていく。
今はまだ、その揺らぎの中にいるのだ。

いつ帰れるのかと、不安がもたげる。
博多ではなくても、とにかく日本に帰りたいと思った。
釜山港から日本の入国を目指すルートは、博多行、大阪行き、対馬行、下関行。
まだ感染症の影響から復活していないルートもある。
長女と二人で、いろんな選択肢を考えながら、帰国への思いを馳せる。
そしてようやく予約を確保できたのが、2日後の夜に釜山港を出港の下関行きの夜行フェリーだった。

日本入国の検閲では、感染症の陰性証明書が必要で、72時間以内という時間制限があった。
当初の予定に合わせて検査した結果が、有効期限切れになってしまった。
仕方なく、再検査を行うため、予約をして検査会場へ向かう。
釜山駅から大通りを東へ進む検査会場への道も、今回の旅では歩く予定のない道だった。

ゆく途中、釜山駅前の広いロータリーに、オレンジ色の服を着た集団の人々がいる。
掛け声を合わせたり、記念撮影をしたり、何かの決起集会のようにみえた。
そして、その中の一人の女性が、笑顔で私にフライヤーを渡してくれた。
韓国語の読めない私は、2030と書かれたその文字しか認識できない。
横にいる長女が、2030年に開催予定の国際博覧会のことを書いていると教えてくれた。

そしてさらに進むその道程で、いつかテレビで見た少女像に出会うことになった。
私にとってはテレビの中の空論のように感じていた少女像が、そこにあった。
その像に向き合おうと、傍らに添えられているパンフレットを手に取る。
韓国語、英語、中国語、日本語のものがあり、日本語のものを持ち帰る。
長女が、日本語のものも準備されてるんだね、とぽつりとつぶやく。
そして少し離れた場所には、これはテレビの報道で知ることはなかったが、炭鉱で働いた少年像もあった。
以前観たテレビの報道と、パンフレットの内容に、やはり過去の悲しさなどの感情に触れることになる。

そして検査を終え、ホテルへの道を戻る。
帰り道、進む道の右手に、アーケードが目に映る。
私たちは、そのアーケードのある市場に吸い寄せられるように、路地を右手に入っていった。
日々の生活のための食材や、日用品が並ぶ商店街、そこには地元の人の生活があった。
イチゴやリンゴが盛られたかごや、ニンニクやキムチが売られている。
地元の人々の暮らしの匂いがした。

その通りを抜けると、現れたのは、中華街だった。

そして私たちは、中華街へと迷い込んだ。

海のすぐそばに山がそびえ立つ、坂の多い釜山の町。
海の風と山の風が出会い、風が止まる凪の瞬間がある。

夕暮れ時の太陽の光と、店から漏れるオレンジ色の電灯の光が溶け合う時。
足を踏み入れた中華街は、一瞬、時が止まったような空間だった。

通りには、中華料理の店をメインに、ロシア料理、ウズベキスタン料理、そして韓国の足つぼマッサージの店などが並ぶ。
それぞれの国の人が、今も行き交う。それぞれの国の言葉も、行き交う。
異なる文化が雑多にミックスされた空間に、右脳を刺激される。
オレンジ色のまどろみの中に迷い込んだような感覚が、私を包んだ。

オレンジ色の光の中を進んでいくと、街の1画に、古い写真や文章でそのエリアの歴史を語る場所があった。
全て韓国語で語られているその説明を、長女の訳で読む。

戦前に、この港町付近には、中国、ロシア、日本の人々が移り住んだ。さらにこの地からウズベキスタンへと移り住んだ人々もいて、移り住んだ人々は、どの国の人もまとめて朝鮮人と呼ばれたという。
この港町付近に移り住んだ中国、ロシア、日本の人々は、国ごとに住分けをしたという。
中国人と日本人が、道を隔ててそれぞれのエリアを作ったらしく、現在中華街として観光地化されているこの場所は、旧くは中国人が暮らしたエリアだったらしい。

説明の全てを読み終え、私たちはさらに中華街を進んでいった。
すると、大きな幹線道路に突き当たり、そこで中華街は終わった。

その幹線道路の向こうには、昨日見た風景があった。

たまたま訪れた、義祖父の生誕地だ。
住分けをするために隔てた道が、今では幹線道路となったのか。
道の向こうの日本人が暮らしたエリアの、寂しげな様子は、私に何を伝えているのだろうか。


滞在したホテルに戻り、15階の部屋の窓から景色を臨む。

目の前に、釜山駅。
右手に、海と、港と、開発中の土地。
左手に、そびえる山と、中華街の門と、ひしめき合う住宅や店舗。

近代的な建築の釜山駅を境に見えた、左にある過去と右にある未来。
悲しい過去と、明るい未来。

私の中に、対極した気持ちが混在した。

その日釜山駅前でもらった、2030年に開催される国際博覧会のフライヤーは、ホテルまで持ち帰った。
この国際博覧会は、右手に見える開発中の土地で行われるのだろうかと予想する。

2030年には必ず、また釜山を訪れよう、そう思った。




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