見出し画像

繋げるのではなく、繋がる。

韓国の釜山に留学中の長女に会うために、2年ぶりに就航が再開した釜山と博多を結ぶ船で、釜山へと赴いた。

初めて私たちが釜山を訪れたのは、長女が中学2年生、14歳の夏休み。8年前になる。
その時の思い出の写真には、私の友人Yさんもいる。
当時、釜山に住んでいたYさんを訪ねての旅だった。

このYさんと長女との、不思議な縁を書き残したいと思う。

私とYさんの出会いは、現在22歳の長女が生まれる少し前、夫の仕事の都合でしばらく住んだ九州南部の、空の青さが印象的な町でのことだった。
4半世紀近くの前になる。

だれも知る人がいない土地で、私は何かを探したかった。
それまで少し勉強していたフランス語を習おうと思った。
当時インターネットも普及してはいたけれど、少なくとも私にとっては今ほど生活になじんではおらず、県の国際交流センターのような施設の掲示板に、「フランス語の先生を探しています。」と当時の自宅の固定電話を記したメモを張った。

しばらくして、自宅にひとりの女性から、「フランス語を教えてくれる先生がいるから、一緒に習いませんか?」と電話がかかり、フランス語が習えることになった。
その時の電話をくれた女性が、Yさんだった。

その後、Yさんと実際に会い、フランス語のレッスンを始めた。
フランス語のレッスン以外にも、時間をシェアし、いろんな話をしたのを覚えている。
彼女の視点が世界に向いていて、軽やかに世界を飛び回れる人だということが、分かった。


しばらくして、私は長女を妊娠した。
それはYさんと会う約束をしていた日だった。
突然ひどいつわりの症状があらわれて、動くことができない。
Yさんに電話をして、約束のキャンセルと、妊娠の報告をした。
家族以外で初めて妊娠の報告をしたのが、彼女だった。
その後、つわりがおさまった時期には、お腹の中にいる長女と一緒に彼女の自宅に遊びに行って、ご家族にもお会いしたり、無事に出産した後には、彼女は生まれたての長女に会いに来てくれた。

そしてほどなくして、長女が2歳になる頃、私は再び福岡に戻り住むことになる。

当時、南国の青空の美しい町で出会った人はたくさんいたが、いまでも繋がっている人は、そのYさん以外にはいない。

彼女とは、なぜかその後も縁が続いた。

その後、彼女が仕事で福岡に住むことになり、偶然自宅も近くという縁があったりで、それからも私たちの縁の糸は切れずに紡がれた。

さらに、彼女は仕事でまた別の県へ移り住むことにはなるが、私たちの縁は切れることなく、繋がっていた。

その後、Yさんに久しぶりに会った秋の日。
その時、長女は中学1年生になっていた。
突然、Yさんは対馬につながりできたこと、そして対馬にある高校の韓国語のクラスについての話を聞かせてくれた。
片や、小学校高学年から韓国語に興味を持ち始め、独学で勉強していた長女のことを話すと、その偶然の共通点に不思議な高揚感を感じたのを覚えている。

Yさんは私の自宅へも足を運び、対馬高校にある韓国語クラスのこと、そしてそこから繋がる韓国への進路のことを話してくれた。
そして、長女は対馬高校への進学を志すようになった。

長女が中学2年の時、Yさんは1年間、釜山駐在となった。
私はなぜかその時、Yさんを訪ね、長女を釜山へ連れて行かなければいけない気がした。
そして釜山を訪れた。
釜山という地で何かを感じた長女は、対馬を経由して、釜山を目指すことを志す。


そして、今、長女は釜山にいる。

ここまでの展開、数ある進路選択肢の中から熟考して選び抜いたとか、頑張って希望を叶えたとか、そんな感覚はまるでない。

たまたま降ってきた縁を頼りに、心の赴くままに進んだ結果、あれよあれよと導かれるように、対馬を経由して釜山へ渡ってしまった長女の姿。

今もYさんはいつも長女の近況を気にかけてくれ、見守ってくれている。

縁というのは、繋げていくものではなく、自然と繋がっていくものなんだと、
ここまで繋がってきた彼女との縁を振り返りながら、そう思う。

そしてこの縁に、心から感謝したい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?