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存在の脆さを前にして

印象的な写真を撮る人がいた。

日常の中のささやかな自然、登山で出会った雄大な自然を収めた写真。

派手な色味ではないのに目を引くものがある。風景写真というのは意図的に人の気配を消したものが多いと個人的に思っているが、この人が撮ると撮り手の存在がなんとなく感じられてあたたかさがあった。

実際に会ったことはない。

ほんの少しだけメッセージのやり取りをしたこともあったが、SNSにアップされた写真を見させてもらうというそれだけの関係性だった。本当に綺麗だと思った時に心からのいいねを送った。

初めのほうは一日一枚投稿されていたその人のSNSは、ある日を境に更新頻度が段々と落ちていった。ここ最近体調が優れない日が続いているらしい。投稿に書かれた文から知った。

それからしばらくすると更新は完全に止まってしまう。引き続き体調が良くないのか、それともSNSはもうやめてしまったのか。

ふと元気にしてるかな…と考える時がある。
でも深い関わりがあったわけではないから、日が経つにつれ思い出すことも無くなった。

そこからさらに月日は流れる。

ある日SNSを開くと、タイムラインのトップに久々の投稿が出てきた。相変わらず綺麗な写真だ。

短い文章が添えてあった。
そこには、アカウント主は先日この世を去りました、との旨がご家族の方により書かれていた。

突然の喪失だった。

一度も会ったことなど無く、ましてや顔さえ知らないような相手だったが、確かにそこには喪失があった。自分では忘れたと思い込んでいたが奥底でしっかりと覚えていた。その人が持つあたたかさはまだ自分の中にあるし、これからもあり続けるだろう。写真というものを通して、それほどまでの印象を私に残していった人だった。

そしてSNS上の希薄なつながりでこんなに揺さぶられる自分にも驚いた。自分の好きな作品を生み出す人が一人永久にいなくなってしまったこと、写真を通してのみ知っている人物がもうこの世にはいないこと。体調が悪いというのが命にかかわるほどのことだったとは微塵も思っていなくて、それが余計に衝撃を食らわせた。

もう数年前の出来事だが、プラスともマイナスとも言えない、Y軸上をぶんぶん上下に移動するような感情を未だに覚えている。

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その人はZINEを作って販売していた。まだ持っている人が世界のどこかにいるはずだ。自分がこの世からいなくなっても、生きた証として作品が残るのは素敵だなと思う。

自分はどうだろう。今この瞬間に死んだら何も残らないんじゃないか。

集めた本と雑貨なら沢山ある。みんな好きなのを持って行ってくれ。撮りためた写真はハードディスクにあるけれど、誰かがパソコンからデータを出せるとも思えない。出したところで、自分の意図しない編集で印刷されるかもしれない。不本意だな。やるなら本気で、これは私がつくりあげました!と胸を張って残したい。

有名人でもないのに、死んだ後も痕跡を残そうとするなんておこがましいだろうか。

いや、そんなことはないはず。
もし別れを悲しんでくれる人がいるならば、残した物が救いになるかもしれない。

そうでなくても、例えば死の数十年後に通りすがりの人がその残した何かを見たとする。たまたま見かけただけなので、誰が作った何なのかその人には分からないだろう。でもそれをつくり出した"誰か"がいたことは事実として存在する。
匿名性を帯びても自分が生きたことの証明になる。

自分は芸術というほど大層なことは何もやっていないけれど、生きたことを何かしらの形として残していけると良いなとこの時からぼんやり考えている。ここまで悲観的なことを書いてしまった気がするけれど、私自身は至って元気でポジティブだし貪欲に長生きしたいです。そしてこれからの長い人生の中で、いつかあの人が撮った景色を自分の目で見に行けるといい。

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