見出し画像

家事の相対量と絶対量

 家事には相対量と絶対量があるようだ。そう考えたきっかけは、うつ病のパートナーと話が噛み合わないことであった。彼女の主張は「わたしはこんなに家事をやっているのに・・・」と続く。しかし、僕の観点(少なくとも僕の観点)では彼女がこなす家事の絶対量は多くない。この状況を説明するひとつの方法として、家事の相対量と絶対量があるようだ。彼女に話をきいてみると、下記の論理により主張が展開されていた。

①うつ病である

②自由意志の元、活動できる時間(可処分時間)が少ない。

③可処分時間における家事が占める割合は、私の方があなたより多い。

パートナー主張
以上のことから、私の方が家事をしており大変だ。もっと量を減らしてほしい。もちろん絶対量は私の方が少ない、しかし家事は絶対量で語られるべきでない。

パートナーの主張したいことは分かる一方、家事のような絶対的な数が生産されるモノにおいて相対量で相手と比較することに意味はない。もちろん各々事情があるので相対量も考慮対象ではあるが、絶対量の不足分は愛情や優しさによって補填されているに過ぎないのである。この状況において、私はあなたよりも相対的に家事をやっているのだから、もっと楽をしてもいいはずだなんていう発言には疑問が残るし、なんか疲れる。

パートナーがうつ病である故、健康である私は相対的に強者になってしまった。弱者により相対的に強者にしたてあげられる辛さというのは、本当に理不尽であり救いがない。なぜなら僕は相対的に強者であるが故、パートナーに救いを求められないからだ。助けを求めるときは、相手が自分より強いか、同じであるということが必要だ。弱者に救いを求めることはできない。

弱者と強者は、個人間に持ち込んで良い構図ではなく、あくまで集団を語る上での構図なのだとあらためて考えるのであった。国はそういう構図を解消するためにあるのだろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?