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「ゲーマー」とコンテキストの生成

注釈:本稿も類に漏れず溜飲するのに一苦労することが示唆される内容になっております。ただ本稿の目的は「誰それはゲーマーではない」や「これをやっていない奴はゲーマー」ではない、という主張を目的とはせず、何故ゲーマーという呼称に執着するかの原因を探る。またその原因を推測した上で個人的に危惧している生成されたコンテキストを否定する意味と理由を追求していく。


前提としてのゲーム事情の推移

年代が進むごとにゲーム自体のメディア露出が増え、テレビCMや物体的な広告や雑誌に頼らずともゲームに関する評価だけでなくゲームプレイそのものを閲覧できるようになった。
可視化という面もあるが、連続的な体験の提供や、製品そのものよりもコミュニティの土台作成を行ったりと様々なアプローチがゲームと共に付随する。それは特定商法へのスポットライトだけでなく、本質的に寄り良いゲームという概念に挑んでいることをアピールすることで、開発側でも自身を高めていくことを目的とすることも一種の商法として受け入れられ始めた。
同時にゲームクオリティや製作時間問わず、アイデア勝ちのゲームも「バズる」形で知名度並びに本数を確保する場合もあるし、そのフォーマットが気に入れられれば文字通りその名前を冠する形で継承されていく。
これの副作用としてゲームが飽和していっただけでなく、同じく「ゲームをプレイする」理由も増えたのと同時に「本当のゲーム」というゲーム内での線引きも如実に行われるようになった。特にSNSプラットフォームの検索方法と同じようにジャンル分けされたタグを用い始めただけでなく「マニアだけが知ってるプレイした方がいいゲーム」のような煽情的な言葉と共にヒエラルキーの構築も着実と行われた。

ゲームとしての共通項

ゲームの普及と飽和に伴いゲームをプレイする環境があること、または様々な環境でゲームがプレイできるようにする携帯型ゲーム機もといスマホでもプレイ可能であることは、セールストークの一部というより常套手段となっていた。
上記理由から新規参入者がどこからともなく訪れるのと同時に、プレイヤー達が自分の腕前やプレイ時間数という既得権益を守る手法を考えるだけでなく、ゲーム側もそれらが守られる保証と優遇制度を用意する必要があった。その度合いはそれぞれだとしても、ゲームを存続させるという開発側のインセンティブがあるだけでなく、それがプレイヤー間に強く根付いていることも同じく観測された。
アクションゲームに至っては基礎的な動きの応用ができ且つそのキャラクター特有の動きが可能である前提のテクニカルなキャラクターも居て、逆にそれら一切の動きはあまり必要ではないが、戦術的に周囲の壁や建物を応用することを要求するキャラクターも開発される。これらは初心者が真似するだけで上手くなることは無く、その他動きの相対的なパワーバランスを把握してでのみ強さを理解できるという領域がある。
特にStarCraft等のRTSゲームではそれらの混合群体を複数地点で画面を切り分けながら同時に内政を加速させつつ、相手への偵察やマップの理解といった戦略的な理解も求めるため、信じられないスペックを平然と要求する。
またガチャゲーに至っては、そういった既得権益をガチャという形でゲームバランスに差し込み、一部界隈では「人権」という強い単語を使う程に重要視されるキャラが居り且つそんな存在を平然と許す環境もある。
以上のことから一部のゲームでは不特定多数の誰かより優位である、または優位であるために労力を惜しまないことがゲームの本質の一部であるという潮流が生まれつつある。

競技性が無いゲームでも

無論これに反逆するために、メッセージ性を強く持たせるためのゲームがあり競技性や数値での争いが発生しないゲームもあるし、極論を言うならばソロプレイが前提ならば上記に該当しないと認識しかねない。
ただしこれらは効率的に行う点だったり、エンディング回収だったり実績集めだったりと数値化している点だけでなく、これら数値を大々的に宣伝している人々や彼らをターゲットにゲームの継続を狙うシステムを提供するゲームもある。これらゲームが存在することは開発者たちも、競技性のあるゲームとは違う種類の既得権益を付与しようとしている点は否めない。特にシリーズ物ではその内容がかなり顕著であり「フレーバーテキスト」だったり、または「前作の知識前提の問いかけ」等を平然と持ち出すこともある。
特にSteamゲームに至っては「購入ユーザーの○○%が実績を獲得した」という報告に連なる形で上位10%以下のユーザーが取得した称号が光輝くというお墨付きを貰えるし、一部ゲームには最後の実績が「全実績の解除」が当たり前のようにある。
より意見が極端になるが「真EDを見ていないのは損」とかいう論調があたかも真理が如く強みがあるだけでなく「物語の解釈」という点から見ても「続編の繋ぎ目」として真EDが扱われる傾向もあるので、ゲーム的にもその解釈が蔓延っていると言っても差支えない。

誰かが作った潮流と共有

よりゲームを知りよりゲームを楽しむ。これを二元論で考えるならば、ゲームを知らなければゲームを楽しめないとも言える。そして如何なるゲーム種類であれ「ゲーマーはゲームを楽しめる存在」という論調が存在するのは、プレイヤー達が潜在的にゲームを楽しめた自分たちがより優位でありより知識があることをゲームという情報共有空間で披露するのと同じだ。
またそれら特殊な共有空間があることを知りつつも参入する人々は、より多く学び強くなる自身の伸びしろがあるからこそ参入する。この考え方が罷り通っているからこそ「皆がプレイするからいいゲームである」という論調も同じく助長されるのだろう。
これに該当するゲームは腐る程あるが、私はあえて列挙しないことに意味を持たせてることを付記しておくが、同時に皆が思ってるあのゲームやそのゲームも類に漏れないことも付記しておく。

作成されたコンテキスト

さて、ここまで読んで頂いた諸氏はメタルギアソリッド2(以降MGS2と記載)というゲームを御存じだろうか?知らない方々も問題なく続きを読める形として、大々的なネタバレを記載する。

MGS2では雷電という特殊部隊の新兵が超機密軍事作戦として、テロリストが占拠したオイルリグから米国大統領を連れ帰りつつテロリストの武装解除に挑むというストーリーだが、この作戦立案者件監視者の「大佐」が実在する人物ではなく、アメリカ合衆国が管理していたAIによる雷電を中心にした人体実験だった。
上記で「管理していた」と記載した理由としては、所持者は合衆国だが今ではAI側が管理し名乗り上げられるほとんど全てを管理可能になり、且つヒトゲノムの解析が完了したので雷電を通して来るべき場所・時・命令で雷電が計算した通りにパフォーマンスを実施するかの最終計測試験として、雷電の抜擢とこの任務が与えられた。
彼らAIの最終目標は「コンテキストの生成」であり、蔓延る正しさや事実や創作物の全てに潜在的な方針を与え、人々が自由に考えすぎず精査されていない正義感をフィルタリングすること。
雷電の動作全てはコンテンツではあったが雷電が作成していくコンテンツはAIが作成したコンテキストを基に動いていた、というシナリオである。

「ゲーマーのコンテキスト」の否定

よりゲームが上手いプレイヤーしかアクションゲームを楽しめていない。真EDを見ていないならゲームクリアではない。全パズルを解かないとクリアではない。実績は全部解除すべきである。
ハッキリ言おう、歪である。これらは全て「ゲーマーはこうであるべき」という漠然とした意識と設計された既得権益からなるコンテキストであり、個々プレイヤーが感じ取った内容に関係ない。
先ほどのStarCraftでも普通にブロンズリーグは存在し、マスター帯では信じられないミスでも、ブロンズの彼らは全身全霊でキーボードを叩くし場合によっては笑い転げることもあれば、その1回のヘンテコなゲームが一生ものの思い出になり得る。
ホラーゲームが苦手なプレイヤーが余りの怖さに、途中で嗚咽しゲームを中断した場合にも、ある意味そんじょそこらのプレイヤーよりもホラーを楽しんでる証左でもあるし、8番ライクのゲームでクリアする前に全異変を見つけてしまっても、それは確実に全異変を楽しめたことでもある。
全実績解除しなくともクッキークリッカーは楽しい。着実に数字が高くなる様子もそうだがアップグレード一つで数字の計算が全然異なる。また旧プレイヤーとして言うと、クッキークリッカーは途中から買えるアップグレードが無くなり単なる放置ゲームになるので、後半は違うプレイ体験になる。
パズルゲームで全ステージクリアしたいならば、是非とも「Understand」とかいう超絶脳みそ融解ハードコアパズルゲームをプレイしてみて頂きたいところだし、これを画面共有でプログラマーの友人達とあーだこーだプレイしてた私が一番楽しめていたと言っても過言ではない。

否定の意味と抑圧されてた正しさ

これら一切を否定する理由としては「ゲーマーならば」と言った口調から始まる変な同調圧力を全て否定するためで、様々なプレイヤーはゲーム内で提供されているコンテンツが同じであるならば、勝利・敗北・発見・見落とし・閃き・ミスがあったとしても個々の向き合い方がある。
ゲームの一場面ごとに「ゲーマーを通しての見方」である必要がまったく無いし、「ゲーマーが好きそうだから」という理由だけでゲームをプレイまたは開発する必要も無い。同時に「ゲーマーらしい意地」というのも同じく否定されるべきだし、夜通しでプレイすることや、全実績を解除することや、裏ボスを倒すことや、特定のアイテム・パークビルドでないといけないだとかも同じく否定される権利が必要だ。
言語化されていない、マーケティングされていない、そういうコンテキストが存在していないだけで個々が感じ取った意志・義理・楽しさ・感動をあたかも無かったが如く否定されてはいけない。逆説的に、ゲーマーのコンテキストが否定されるまでは、ゲームから得られる様々な感覚の正しさが緩やかに抑圧されており、個々の尺度で自由にゲームを楽しめないのだ。

否定されることで際立つ正しさ

コンテキストの否定にはゲームとプレイヤーを自由にさせる側面もあるが、同時に否定されたコンテキストから余分な要素を排除する意味にも繋がる。
我々が漠然的に考えていたゲーム内の既得権益の正体へと焦点を当てて、どのゲームのどの要素が既得権益になり得たのか。はたまたそれら既得権益に内在していた煩わしさや、間違った評価の見直しにも繋がる。
今回の「ゲーマーのコンテキスト」を否定することができるならば、個々のゲームが目指す目標が鮮明になるし、より迎合的なコンテンツ、またはより雰囲気を大事にする方へと舵を切ることもできる。同時に「上位プレイヤーしか楽しめない」ゲームを用意してあげることで「ゲーマーが好きそうなゲーム」から「超高難度ゲーム」というジャンル付けへと昇華される。
また「夜通しゲームをプレイした」ことは、それは「ゲーマー体験」ではなくそういうゲームに出会えたことや、それを実施できる程の余暇があり、次の日に惰眠を貪る退廃的な日々を味わうことへと昇華されるし、そんな日を「健康に悪いよ」とか漠然と言われたとしても、真っ向から対抗できるのだ「そういう日を味わいたかっただけ」と。

あなたはゲーマーか?

くだらねぇ。マーケティングがしやすいから、それが漠然と認識されたスタイルだから、それが優遇されるようなゲームしか認められなかったから世界から出来上がったコンテキスト。
しかも緩く色んな解釈があり長続きすることが想定されたコンテキスト、このコンテキストの正体を知らずに踊らされるだけでなく如実な被害にあうことも、この言葉を使って叩きつけた悪意も、この言葉を脳裏に浮かばせながら同調圧力に負けてプレイした自分に合わないゲーム、このコンテキストを盾に展開されたゲーム内外問わずの不完全な理論や主張される正しさ等、被害は想像を絶する。
ゲームがより普及される時代だからこそ、そしてゲームを愛する者だからこそゲーマーというコンテキストを否定したい。その一心で筆を執りました。これを機に、ここまで読んで頂いた方々も、同じくゲームに可能性を求める同士として、改めてゲームに向き合って頂きたい。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

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