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僕が獣害対策をやる理由。命にやさしくありたい。

この頃Facebookやnoteにでも文章書きたいなーと思うのだけれど、ことばと思考がぐるぐる回って、筆先まで下りてこない。

いっそ開き直って、思考のダダ漏れのような文を書いてみようと思い、タイピングしている。

以前Facebookで、獣害対策ジビエをやりますって投稿をした。
先月からのMAKERS UNIVERSITY で多くの対話と内省を繰り返して、この決意、意志は、少しずつ形を変え、色を付け、強度を増していった。

獣害対策に関心をもったのは農業の現場に触れたからだけど、どうやら自分の欲望は、別のところにあるらしい。

もちろん獣害に悩む農林業を営む人たちの力にはなりたい。でもそれは最近芽生えた、ひとつの課題意識で。

昔から意識はせずともずっと気になっていたのは、「命との関わり方」についてだ。

生きるってなんだろう
死ぬってなんだろう
命をいただくってどういうこと
命はなぜ綺麗なの

死がこわい

こんな関心を(たぶん人より強く)もっていたから、畑を守るために動物をたくさん殺しているけど、活用しきれないから処分しているよ
っていう話を聞いたとき、少しゾッとしたんだ。

こわい
命にやさしくない

命にやさしくない社会は、居心地がわるい
変えたい

だから獣害対策、そしてその先のジビエなどの利活用をやりたいと思った
ということをMAKERSのなかで後から言語化できた。
自分の中の深いところを探るのは、貴重な体験だった。

見過ごせない現実があったら、まずその当事者になりたい。

感情や欲望にシンプルに生きてみたい。

「食べる」を考えてみる

命にやさしくないのは、動物の命に対してだけではない。
自分たちの命に対しても、そう感じるのだ。

世の中が食べ物で溢れていて、人びとの毎日は忙しい

手軽に栄養補給
すばやく食べられるパッケージ
いつでも保証された同じ味

そういうものが重用されるようになり、食べるという行為が変容してきている。
食べ物すべての裏にあるはずの命を想い起こすのが困難になっている。

栄養バランスを整えるのが簡単になり、人々は"健康"になっただろうか。

食べ物の命、命が食べ物になるまでのプロセス、つくった人の顔やこだわり
そういったものを想い起こしながら、自らの命にも気を配ることが、食べて健康になるということな気がする。

狩猟は命を自らの手で摘み取り、食べ物にするというプロセスがわかりやすい。
これを体験として提供することで、食への価値観がすこし変わるような事業をしたいと、今は思っている。

命の色を考えてみる

昨日、愛知の住んでいるところから程近い名都美術館で催されていた「志村ふくみ展」に行ってきた。
草木染めで有名な日本を代表する染織家、志村ふくみさんの作品の展覧会。


摘み取った命を別の形に落とし込むことのひとつの例が食べることだとするならば、染織物もまたひとつだろう。

志村さんの染める色は感情の機微がとても繊細に映し出されていて、美しい。

その多彩な色は、すべて植物の体からもらっている。

例えば桜色であれば、使うのは花ではなく、枝や幹の一部。
しかも花が咲いてその綺麗な桜色が人の目に見えるようになる直前、木が体いっぱいに色を溜めたときの、命を摘むそうだ。
そうしないと染めても綺麗な色にならないと言うから不思議だ。

厳しい冬を乗り越え、春にいざ咲き誇らんとする桜の枝をいただくのは、自ずと命に向き合うことになるのだろう。

今や化学染料が主流だが、志村さんの色は化学染料では真似できないことは明らか。
どこか色が生きているような、感情をたくさん与えてくれる色だった。

食と染織物、形は違えど、自然を敬い寄り添って生きる志村さんのあり方に憧れる。

"いのちにやさしい社会"への、ヒントをもらったような気がした。





……とここまで書いておきながら、
いのちとはなにか
たべるってどういうこと
はまだ十分には分かっていない。

日々、自然や自分に問いながら、見つめていきたい。




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