世界史その23 ヒッタイトの建国伝説とヒッタイト古王国

 最近、軽いエッセイばかり書いていたので、教養編の本編となる世界史シリーズは久しぶりの更新になります。前回のその22で、ヒッタイト以前にアナトリアにいたハッティとヒッタイトと鉄の関係を論じたので、その続きになります。
 と言ってもヒッタイトから鉄に関することを除くと、意外と語れることが少なかったりもするのです。

 ヒッタイトは紀元前2000年紀の半ばに中央アナトリアを本拠地に、オリエントに覇権を示した強大な国家と、その国家を主導した民族の名だ。歴史上現れる最初の印欧語族で、文書にヒッタイト語の人名が登場する時期から、紀元前1900年頃にはアナトリアに移住を始めていたと思われる。
 ハットゥシャで発見された「アニッタ文書」にはヒッタイトがアナトリアの覇権を手にしてカニシュに本拠地を移した過程が記されている。文書によれば、クッシャラの王ピトハナがカニシュを征服し、その息子アニッタはハットゥシャやザルパ、プルシュハトゥムを支配下に収めたとされる。カニシュは古アッシリアの経済植民地だった都市、ハットゥシャは後のヒッタイトの首都、プルシュハトゥムは「大領主」によって治められていたと記録され、ヒッタイト以前に地域大国としてアナトリアに君臨していた可能性のある都市だ。
 プルシュハトゥムの征服後、その支配者はアニッタに鉄の王座と鉄の尺を献上し、アニッタは彼をカニシュに連行し、自分の右に座らせたとされる。発見された文書は後代の写しなので、どこまで歴史的事実が反映されているか不明であるが、カニシュからは「王アニッタの宮殿」という銘文のある槍の穂先(青銅製)が発見されている。

 この伝説的な初期の王以降のヒッタイトの歴史については、ほとんどわかっていない。資料が増えてくるのは紀元前1650年頃からとなる。この頃、小国分立状態のヒッタイトを統一したラバルナ1世(紀元前1680年~紀元前1650年ごろ)に代わって、ラバルナ2世(紀元前1650年~紀元前1620年ごろ)が王となった。ラバルナ2世はハットゥシャを再建し、クッシャラから都を移し、ハットゥシリ1世と改名した。ラバルナ1世から始まる時代を、「ヒッタイト古王国」と呼ぶ。
 ハットゥシリ1世はシリア北部に進軍。続くムルシリ1世(紀元前1620年~紀元前1590年ごろ)は、メソポタミアまで遠征し紀元前1595年にバビロン第1王朝を滅ぼした。ヒッタイトの軍はバビロンに留まらずに引き上げ、帰途にはフリ人も撃破した。しかし凱旋したムルシリ1世は義弟に殺害された。
 ムルシリ1世を殺害し王位についたハンティリ1世(紀元前1590年~紀元前1560年ごろ)以降、王家の内部での謀反が相次いだが、テリピヌ1世(紀元前1530年~紀元前1510年ごろ)によって混乱は収拾された。200条からなる「ヒッタイト法典」や王位継承順が定められ国内の秩序を回復するとともに、エジプト第18王朝と外交を開始した。

 しかしテリピヌの死後、ヒッタイトは国力を落とし、ミタンニが勢力を拡大した。
 トゥトゥハリヤ2世(紀元前1450年~紀元前1420年ごろ)が新たな王朝(ヒッタイト新王国)を興し、シュピルリウマ1世(紀元前1370年~紀元前1336年ごろ)が再びヒッタイトを強国へと押し上げるまで、ヒッタイトは低迷の時代を経験することになる。

 以上がヒッタイト古王国成立以前の状況、建国の伝説、ヒッタイト古王国の歴史となります。意外にわかっていることが少なくて、盛り上げどころが見つからないままのまとめとなってしまいました。
 バビロニア遠征で勝利をおさめながら、帰国後に殺害されたムルシリ1世は、トロイア戦争のアガメムノンのようで、詳細がわかれば面白く描くこともできたのではないかと思うのですが。
 個人的にはヒッタイトの建国伝説と言える「アニッタ文書」が興味深いです。事実と見るには考古学的な裏付けが必要でしょうが、アニッタがプルシュハトゥムを征服した経緯は、ヒッタイトによるハッティ人の征服と同化、そして製鉄の技術がヒッタイトにもたらされた経緯、更にはその頃、鉄が実用品としてより国威を示すための「貴金属」として扱われていたことなどを反映しているように思います。

 次回は「超大国ヒッタイト」と題して、ヒッタイト新王国の歴史と、周辺国家との関係をまとめて行きたいと思います。


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