世界史その24 超大国ヒッタイト

 20世紀初頭、ヴィンクラー率いるドイツの調査隊が、アナトリア中央部のボアズキョイの地で、大規模な建造物の遺構と文書の記された大量の粘土板を発見した。その中にあったアッカド語の文書に、既にエジプトで発見されていた、エジプトとヒッタイトの間で結ばれた平和条約と同じ内容のものがあった。これによりトルコの小さな村ボアズキョイが、かつてのヒッタイト帝国の首都ハットゥシャであることが明らかになった。
 またこの地ではアッカド語ではない言語で書かれた粘土板も見つかった。ヒッタイト語とされたこの未知の言語は最古の印欧語であることが確認され、ヒッタイトが歴史に登場する最古の印欧語族であることも明らかとなり、またエジプトで発見されていたヒッタイト語の文書も解読が可能となった。
 この劇的な発見でもわかる通り、ヒッタイトは当時の大国エジプト新王国と並び立つ大国だった。当時のオリエントにはカッシート人のバビロニアやミタンニ、中アッシリアといった大国が存在していたが、エジプト、そしてヒッタイトは文明発祥の地メソポタミアに割拠するそれらの国々が霞むほどの2大超大国として、この時代の国際情勢を主導する存在だった。

 とは言え、どのような大国も最初から覇権国家として生まれた訳ではない。前回取り上げたヒッタイト古王国が弱体化した時代は、ミタンニが強大化した時代と重なる。新しい王朝を興したヒッタイトは、まずこの強国の圧力の元で足場を固めることからスタートすることになったようだ。

 新王国はトゥトゥハリヤ2世(紀元前1450年~紀元前1420年ごろ)が新たな王朝を建てたことで始まるが、古王国と違い新王国はフリ人の強い影響を受けていたようだ。アナトリア半島内のヒッタイトの領域の西南に、ヒッタイトと同じ印欧系のアルザワという国が勢力を伸ばしており、ヒッタイト新王国にとって大きな脅威となっていた。
 またアルザワの更に西にはアヒヤワという国があった。これは「アカイア」という語からきておりギリシア人の国ではなかったかと推測されている。アヒヤワの王はヒッタイトから同盟国として特に重要視されていたようである。
 また史料に一度だけ名前のでてくるタルウィサや、トロイの別名であるイリオスのヒッタイト語名であるウィルサなど、ギリシア神話に登場するトロイであった可能性がある国も当時のアナトリアには存在した。

 シュピルリウマ1世(紀元前1370年~紀元前1336年ごろ)の時代になるとヒッタイトは国力を回復し、アナトリアの地域大国としての地位を取り戻したばかりでなく、更にその外へと勢力を伸ばし始める。
 隣国のミタンニは大国であるばかりでなく、エジプトとの婚姻によって国際的な立場を強めていた。シュピルリウマ1世はエジプトとの関係改善に努め、近隣の小国と同盟を結び、バビロニア(カッシート)の王女を妃に迎えるなどの周到な準備でミタンニに対抗してゆく。紀元前1360年ごろ、ついにミタンニの都・ワシュカニを攻略し、重要な都市であるハラブ(後のアレッポ)やカルケミシュを版図に加えた。
 その後ミタンニはヒッタイトの後援を受けた王が立ったりもしたようであるが、その終焉については詳しくわかっていない。

 ムワタリ2世(紀元前1315年~紀元前1282年ごろ)の時代になると、エジプトではアクエンアテン(イクナートン)の協調主義的な外交政策が終わりを告げ、第19王朝によるパレスチナの統制強化とシリア進出を目指す動きがヒッタイトの脅威となる。
 第18王朝の時代にエジプトはパレスティナを勢力下に収め、おおむねオロンテス川を勢力圏の境界と考えていたが、オロンテス川のほとりにあるカデシュは幾度となくエジプトに反抗していた。トトメス3世の遠征に際して、カデシュはメギドとともに、ミタンニの後ろ盾の元で対エジプト同盟の盟主となっていた。この遠征でいったんはエジプトの勢力圏に入ったものの反乱を繰り返していたカデシュは、対外進出に消極的なアクエンアテンの時代にヒッタイトの勢力圏に移っていた。
 エジプトが第19王朝時代となると、カデシュの回復を目指すエジプトのセティ1世とムワタリ2世の間でカデシュを巡る戦い(紀元前1315年ごろ)が起こった。セティ1世にカデシュとシリア一帯の支配権を奪われたヒッタイトは、すぐにその支配権を取り戻し、代がわりしたエジプトのラムセス2世との間で有名な「カデシュの戦い」(紀元前1286年ごろ)が起こることになる。
 カデシュの戦いは戦闘の準備から軍隊の移動、戦闘の推移などが詳細に残された最初の戦闘として名高い。残された記録ではエジプトとヒッタイトの両者が勝利を主張しているが、戦術的には両者が兵を引いている引き分け、勢力圏に変化がなかったことから、戦略的には防衛に成功したヒッタイト側の勝利と考えられる。
 ヒッタイトとエジプトはその後も冷戦状態が続いたが、ハットゥシリ3世(紀元前1275年~紀元前1250年ごろ)の代に、ラムセス2世との間に平和条約が結ばれ、両国の勢力圏が確認された(紀元前1269年)。これがこの記事冒頭でも紹介した文書に書かれていた平和条約で、文書として残っている最古の国際条約として知られている。そしてこの条約の背景には、いよいよ台頭してきたアッシリアの姿があるとも考えられている。

 アッシリアはヒッタイトのシュピルリウマ1世によってミタンニが大打撃をうけたのに乗じ、替わって大国の地位に躍り出た。アダド・ニラリ1世(紀元前1305年~紀元前1274年)はヒッタイトの同盟国ハニバルガド(ミタンニの後継国家とも考えられる)を繰り返し攻撃し、王とその一族をアッシュルに連行するなどした。ヒッタイトのムワタリ2世は、アダド・ニラリ1世からの「兄弟」と呼びかける書簡に対して、返信で不快感を示している。アッシリアのシャルマナサル1世(紀元前1273年~紀元前1244年)の治世に、ハニバルガド全域がアッシリアの支配下となった。緩衝国として機能していたハニバルガドの喪失で、ヒッタイトとアッシリアは直接に勢力を接することとなる。
 ハットゥシリ3世がエジプトとの平和条約、バビロニア(カッシート)との条約を結んだ背景には、このようなアッシリアの脅威があったと考えられる。またバビロニアとの同盟には対エジプトの意味もあっただろう。

 ヒッタイト新王国は文化や宗教に、フリ人から強い影響を受けている。王妃たちの名前が知られている限りフリ語の名前であるなど、フリ人は支配階級の中にも深く食い込んでいたようだ。
 政治的には全土が世襲領土の集合体の態をなしていたため、王権が弱体化すると分裂する傾向があった。
 経済的には取引のために予め一定の重量に揃えられた金属片など、後の貨幣に繋がるアイデアもみられた。

 超大国として古代オリエントに君臨したヒッタイト。しかし同時期にはもうひとつの超大国エジプトがパレスチナまで勢力をのばしており、他にも大国と呼ぶべき諸国がひしめく時代にあって、ヒッタイトもまた軍事・外国の激しい駆け引きの只中にあった。それらの記録は楔形文字を記した粘土板の形で各地に残されている。
 紀元前1200年頃、その超大国もついに首都を占領され姿を消す。その頃激しく活動してた「海の民」によるものとも、「海の民」と行動を共にした、または「海の民」の活動に乗じたフリュギア人によるものとも言われる。

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