世界史 その12 レヴァント・アナトリアそしてエーゲ海の文明への道

 世界史その1で述べたように、文明への道筋の第一歩となる定住文化が最初にみられるのはレヴァント地方だ。またアナトリアにもまだ研究の進んでいないギョベクリ・テペの遺跡を初め、後の本格的な文明に繋がっていくであろう新石器時代の遺跡がいくつも見つかっている。
 ところが実際に文明と呼べる段階に発展したのは南部メソポタミア、シュメールの地だった。その後現在の国家と比べても遜色ないほどの広大な領域を持つ国家が登場したのも、メソポタミアとエジプトだった。その間、定住や農耕で先んじていたこれらの地域はどのようだったのかを見ていきたい。ついでにアナトリアの更に先、エーゲ海までを対象とする。
 教科書だとレヴァント(シリア・パレスティナ)ならアラム人・フェニキア人・ヘブライ人、アナトリアならヒッタイト、エーゲ海はクレタ文明やミケーネ文明で出てくることになる。この項はそれより少し古い時代までを纏めて、教科書の空白を埋めてみようという意図になるわけだ。
 ただしどうしても理路整然と歴史の流れを解説とまではいかず、主要な遺跡の列挙になってしまったので、少し退屈な項目になってしまったかもしれない。

 まずは謎に満ちたギョベクリ・テペの遺跡について。アナトリアと言ってもシリアに近い位置だが、紀元前1万年~紀元前8000年頃に建てられた宗教施設と推測される遺跡だ。農耕・牧畜の開始以前の遺跡であるにも係わらず、巨大な石材によってモニュメントが建てられている。
 従来、多くの労働力を集めたり、複雑な儀式や神殿を持つ宗教を組織することは、農耕・牧畜による余剰生産物があってこそだと考えられてきたが、これに対し大規模な宗教を運営するために多くの食料が必要となり、そのためにこそ農耕・牧畜が始まったのだとする見解が生まれた。今後、どのような研究が為されるのか楽しみな遺跡だ。
【2022・8・3追記】
 AFPがTwitterで、ギョベクリテペの動画を公開していたので、ご紹介。

 ナトゥフィアン文化の説明の時に少し名前の出てきたイェリコは、パレスティナの遺跡だ。紀元前1万年~8000年頃、聖所と一時的な住居が設けられ、紀元前8000年~紀元前6000年には巨大集落に発展した。厚さ2mの城壁や、高さ9mに達する見張り塔が設けられた。人口は2000人に達すると見積もられており、農耕の痕跡は発見されていないものの、一定以上の規模の農耕が行われていたことは確実視されている。

 アナトリア中央部では紀元前7000年頃には麦・豆の栽培、ピスタチオと樫の実の採取に基づく農耕社会が形成された。その中心のひとつが、チャタル・ヒュイクだ。イェリコの3倍の面積の集落には、隙間なく密集したまるで蜂の巣のような住居が立ち並んでいた。住居の間には通路すらなく、出入りは天井から梯子で出入りしたのだという。
 周囲が沼沢地で防御に不安がなかったためか城壁はなく、その沼沢地から水を引いて灌漑農耕が行われた。14種類の栽培植物が知られ、羊や山羊の飼育や養蜂も行われた。石臼などの石器も出土しているが、農具は木製だったようだ。
 文化面では狩猟の絵のほか、火山と集落を描いた世界初の風景画、禿鷹と死体の絵、出産場面のレリーフ、豹を抱いたり豹の上に腰かけた女性像などが出土している。
 その他の出土物としては銅と鉛の塊、木工細工、黒曜石の鏡、スタンプ式の印章など。

 紀元前6000年紀にはいると農耕文化はエーゲ海に到達する。紀元前4500年頃までにギリシャ独自の文化が生まれた。紀元前4000年紀に入るとギリシャからドナウ川流域に銅の冶金技術が普及していく。

 紀元前3500年頃になるとメソポタミア南部とエジプトでは大規模な灌漑農耕が始まる頃、アナトリアやレヴァントでも金石併用の時代から、初期青銅器時代へと移行する。
 初期青銅器時代にはアナトリアにはインド・ヨーロッパ語族のルウィ人が、シリア・パレスティナ地方ではセム系のカナン人が移住し、小国家が生まれ初める。
 紀元前3000年紀に入ると、北部メソポタミアに近いシリア沿岸部は、アッカド王国やウル第3王朝の支配下や覇権下に置かれることが多くなり、粘土板や楔形文字などメソポタミア文明の影響が強くなる。
 また同時期のエーゲ海のキュクラデス諸島に独特の文化が誕生した。紀元前3000年紀後半にはヨーロッパでも青銅器が普及するようになる。

 紀元前2000年紀に入るとパレスティナとエジプトの結び付きが強くなる。エジプト側の資料にダマスカス、ビュブロス、イェルサレムの名前が登場する。
 シリア沿岸部では交易都市ウガリッドが登場し、ヒッタイト、エジプト、更にはミケーネ文明やミノア文明に属する人々との交易が行われていた。
 アナトリアではカールム・カネシュなどアッシリアの経済植民地が設置された。そしてインド・ヨーロッパ系のヒッタイト人が姿を現してくる。
 エーゲ海ではクレタ島を中心にミノア文明が始まり、紀元前19世紀にはクノッソス宮殿などが建造される。

 さてヒッタイトやミノア文明の名前が出てきたところで区切りをつけることにしたいと思う。どちらも全盛を迎えるのはもう少し後になるのだけど。
 この項は「文明への道」とタイトルをつけたけれど、こうして見ていくとシュメールの都市国家が繁栄してから数百年のうちにアナトリアとレヴァントも文明と呼ぶべき状態に到達していた。そして紀元前2000年頃からは下エジプト、パレスティナ、シリア沿岸部、アナトリア、エーゲ海によって囲まれた東地中海を結ぶ交易網が浮かび上がってくる。下エジプトは当然上エジプト、そしてヌビアと繋がっているしアナトリアとシリア沿岸部は北部メソポタミアを含むシリア内陸部、南部メソポタミア更には海路を通じてインダス文明圏まで繋がっている。今から4000年前という時期を考えると驚くほどダイナミックな活動が行われていたのだと思う。
 今後の構想としては紀元前2000年紀の最初の3分の1くらいの世界を見ていくつもりでメソポタミアとエジプトについて記述したので、次はミノア文明を取り上げた後、インドは既に書いたインダス文明が続いている時代なので、中国とその周辺に飛ぶ、そして紀元前2000年半ばの3分の1をまたメソポタミアから初めていこうと思っている。

 余談だが今回は地名のカタカナ表記の揺れに苦しめられた。イェリコ、イェルサレムをエリコ、エルサレムと書かなかったのは完全に好みの問題だが、パレスティナかパレスチナかはかなり悩んだ。ギョベクリ・テペはナショナルジオグラフィックではギョベックリ・テペとなっているし、チャタル・ヒュイクにいたっては参考にした中央公論新社の「世界の歴史」の同じシリーズ内で1巻ではチャタル・ヒュユク、4巻ではチャタル・ヒュイクと揺れていた(Wikipediaではヒュユク)。重版の時に改めたのかもしれないけど。ギリシャとギリシアも悩んだがこれは外務省の表記にあわせた。ならばパレスティナも外務省にあわせてパレスチナとすべきだが、一貫した基準ではなく自分の馴染んでるほうにしている、ということでご理解いただきたい。

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