製鉄の始まり #世界史を支えたマテリアル

 別の記事でも書きましたが、昨年、世界史関係の記事については、ヒッタイトと初期の製鉄について調べているうちに終わってしまった感があります。きっかけはヒッタイトで行われていた最初の製鉄や鉄の利用状況はどんなものだったのか調べようとしている時に、こちらのブログを見つけてしまったこと。

 だいたいこんな風に纏めようとしていた記事のアウトラインが「古い」と一刀両断されていたわけです。この記事が学会誌へリンクが貼ってあったので論文を読みに行くと、確かに従来説がはっきり否定されております。そのため一から勉強のし直しとなったのですがこれが大変で、図書館で借りられる一般書のレベルだと、なかなかその全貌がわかりません。
 結局は振り出しに戻って、上のリンクで紹介されていた学会誌の記事を参考に自分の記事をまとめたのです。余談ではありますが、この記事ではヒッタイト以前にアナトリアにいた民族の名称についても苦しみました。ストレートに「プロトヒッタイト」としている資料もあれば、「ハッティ人」としている資料もあり、しかし「ハッティ」はヒッタイトの別名でもあるので、ある資料で「ハッティ人」と書かれているものが、別資料で「先ハッティ人」と書かれているものと同じ民族だったり・・・。
 苦労の産物がこちらの記事ですので、読んでいただければ幸いです。

 前置きが長くなりましたが、この記事では上の記事の副産物として得られた素材としての鉄と初期の製鉄に関する知識を纏めておきます。主な参考文献は「西アジア考古学Vol.5」から「古代西アジアにおける初期の金属製錬法」と「古代西アジアの鉄製品 -銅から鉄へ-」、同Vol.17から「中央アナトリア、カマン・カレホユック出土鉄製品に見る「鉄器時代」のはじまりに関する一考察」、講談社ブルーバックスの「人はどのように鉄を作ってきたか」、となります。

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 まず素材としての鉄は自然界では鉄鉱石の形で存在している。ここで鉄鉱石の種類までは論じないが、鉄鉱石は主に酸化鉄の形で鉄を含んでいる。これを金属鉄として利用するためには、還元反応を利用して酸素を取り除く必要がある。
 純粋な鉄の融点は1536℃だが、炭素が溶け込むことで1154℃まで下がる。鉄鉱石の還元のために木炭を利用すれば、必然的に鉄表面に炭素が浸透することになる。銅の融点は1084℃なので、銅を加工する技術があれば鉄加工へのハードルはかなり下がることになる。ただしこの場会、溶けるのは木炭に触れている表面だけであり、その雫が炉の底に集まって銑鉄の塊となる。しかし古代の技術では、溶かした鉄を型に流し込んで製品を作る鋳造はできない。青銅では紀元前3000年頃から鋳造で製品が作られていたのに対し、こちらの記事(pdfです)によると鉄製品の鋳造は、中国で紀元前500年ごろ、西洋では紀元後1311年まで行われていなかった。
 鋳造が不可能なため古代の鉄製品は鍛造で加工された。刀鍛冶の作業風景などでみるように、赤熱した鉄を叩き延ばすなどして加工していくことになる。鉄は融点よりも低い912℃で結晶構造が変化して、鍛造で加工するのが容易になる。「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるが、赤熱した鉄を打って加工するのはこのためである。この高温の鉄には大量の炭素(低温の鉄の約100倍)が溶け込むことができるので、この状態で急速に冷却すると炭素が過飽和の状態の鉄が得られる。これが「焼き入れ」で、鉄は非常に硬くなる。
 私事ではあるが、私の母は銑鉄と鋼の違いと焼き入れを混同していたようで、子どもの頃「炭素が多い鉄が鋼」と教わったのだが、実際には炭素の少ない鉄が鋼である。鉄鉱石に炭素を浸透させることで銑鉄を得、銑鉄から炭素を取り除くことでより硬い鋼鉄となり、焼き入れで炭素を取り込むことで、更に硬くすることができる。近代までの世界の製鉄とは、炭素をコントロールすることに尽きると言えるのかもしれない。
【2023・10・7 追記】
 ここの記述は少々不十分でした。たしかにここで問題としている古代メソポタミアでの製鉄では、炭素を多く含んだ鋳鉄が得られ、ここから炭素を取り除くことで鋼を得ていました。一方、現代では天然ガスを使って、炭素の少ない銑鉄を得て、こちらに炭素を加えて鋼鉄にする製造法も使われているので、母がイメージしていたのはこのことだったかもしれません。

 実際の鉄利用の状況は考古学的な資料の不足もあって、不明な部分が多い。
 最初の鉄利用は鉄鉱石ではなく隕鉄を加工することで始まった。隕鉄はニッケルを含む鉄からなる隕石で、紀元前4千年紀末には利用が始まったとみられる。
 鉄鉱石の利用はおそらく、銅の精製にシリカを除去するために鉄鉱石が使われる中で偶然に銑鉄が得られたことから利用が始まったと考えられている。こうして製鉄を始めたのが、ヒッタイト以前にアナトリアにいたハッティ人だった。しかし最初の製鉄については遺跡で確認するのは難しく、現在古代の製鉄跡とされている遺跡にも、実際には銅の精錬を行っていた遺跡で、鉄は副産物として得られていた可能性もある。

 鉄は初期には実用品の素材としてより、貴金属として扱われていたが、ヒッタイト時代になると武器や工具としての利用が増えてくる。ただしこの時代には意図的に炭素量をコントロールして良質の鋼を作ることはできず、成分にムラのある鉄の中から、偶然鋼になったものを利用していたようだ。
 ここで見落とされがちであるが非常に大事な視点として、銑鉄の強度は青銅に劣り、鋼も焼入れの技術抜きでは青銅と同程度の硬度しか得られないということがある。鉄が青銅器に優るというのは前提として、不純物の除去や焼き入れ・焼き戻しの技術の存在がある。「青銅器時代」→「鉄器時代」と技術が発達したという知識は、時として鉄が青銅に優るのは自明であるとの誤解をもたらすので注意が必要だ。
 実際、鉄を大々的に利用していたイメージの強いヒッタイトにおいても、鉄製品の出土数は必ずしも多くはない。ただしヒッタイトが鉄に非常に強い関心を持っていたことは、文献史料から読み取れる。
 ヒッタイトは必ずしも鉄の製法を秘密にしていたわけではなく、ヒッタイト滅亡後に鉄器の利用が広まっているように見えるのは、「海の民」の活動により錫の流通が妨げられたため、青銅の代用品として鉄が利用されたからだという説が提唱されている。
 焼き入れ・焼き戻しなどの技術が初めて見られるのは、紀元前12~11世紀のキプロスだという。古代地中海世界最大の銅の産地として知られ、英語の「copper」の語源と言われるキプロスが、製鉄でも先進地域だったというのは興味深い。そして紀元前8世紀になると東地中海世界での鉄の加工技術が成熟し質の安定した鉄製品が生産可能になった。鉄器の利用範囲は拡大し、真の鉄器時代と呼べる状況へと移行していった。

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 以上が1年間の勉強の成果です。その昔、やっつけで提出した卒論より勉強したのではないかとも思いますが、専門的な知識のある人から見れば浅いものなのでしょう。
 最初にも書いた通り、この苦労の大半は適切な資料を見つけることができなかったことによるものでした。参考にした学会誌の記事にも、国内には参考にする文献がなく、また考古学の研究者と金属の研究者の共同研究の日が浅く邦文の解説を書く条件が整っていないと書かれています。
 歴史学と考古学のすれ違いという意味では、「ソースはネット」になってしまうのですが、冶金学者の中には鉄は銅の融点以下で加工できるため青銅よりも鉄の方が早く利用されていた筈、と考えている人がいるという話があります。
 例えばこちらとかで、その話は紹介されています。

 この話に対する反論としては、紹介したブログと同じ結論となってしまいますが、青銅より以前に鉄が加工可能だったとしても、それを道具として利用するには、石器より便利でなくてはいけないということが言えます。数万年、ホモ・サピエンス以前の人類から連続しているとすれば数十万年のノウハウの積み重ねのある石器に、低温で加工した脆くて硬くもない鉄では太刀打ちできなかったのでしょう。

 ヒッタイト人は製鉄の技術で覇権国家となり、ヒッタイト滅亡後に秘密にされていた製鉄法が他の国にも広がったという「常識」が、ダイナミックに変わっているのを追いかけるのは、大変ではありますが大変な知的興奮を覚える体験でした。今年もこのように勉強した甲斐があったと感じられる体験をできればと思います。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。


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