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正しい狂気とは~疾走するストリックランド~

「描かなくてはいけないんだ」また、ストリックランドはいった。~中略~ストリックランドの声には本物の情熱がこもっていて、私は思わず胸を打たれた。彼の内では、激しい情熱が苦しみにあえぎながら暴れているかのようだった。とてつもない強烈ななにかが、いってみれば意志とは関係のないところで彼を駆り立てている。

「描かなくてはいけないんだ」

サマセット・モーム「月と六ペンス」では、40過ぎの冴えない男ストリックランドが、家族も仕事も何もかもを捨てて、描くことのみに一心で挑むことから物語が始まる。

才能があろうがなかろうが、関係ない。彼は描かなくてはならない。何が正しいのか、何を言われようが大したことではない。倫理観が欠落しようがそんなことは些細な問題だ。

描かなくてならない。ストリックランドはただ疾走する。駆ける獅子に周りの風景はただ通り過ぎるのみで、その何れも悲しいほどに微塵も彼に影響を与えることはない。

無頓着な莫大なるエネルギーに突き動かされ、まさしく狂信者のように一途で使徒のように残酷な存在、それがストリックランドである。

誰もがこうなりたい自分になれない中で、ひたすら直進するストリックランドには心惹かれるものがある。ベクトルは真反対であるが、太宰治の文学を読んで自分の弱さに安心してしまうような、それとは真逆の手法でこの作品は我々の羨望を具現化してしまう。

もう一人の狂人、「わたし」の友人ストルーヴェ

もう一人、この作品には狂人が登場する。凡庸な作家ではあるが、絵を売る技術に優れて一流の審美眼を持つ、語り手「わたし」の友人ストルーヴェ。人間としてのプライドが欠落していると自覚する彼は、とにかく献身的だ。

何もかもを捧げて、それらの全てを失おうとも、なおかつストリックランドの才能に投じる様は、狂気すら覚える。

描くことに全てを捧げたストリックランドは自己の魂そのものに献身的であるが、ストルーヴェは自己の信じ得る美自体に全身全霊を文字通り犠牲にする。

その結末は悲劇的なのにも関わらず、どこか喜劇的なのは単にストルーヴェの善意なる狂気に依るだろう。

「諸君、狂いたまえ」

と言ったのは吉田松陰である。不思議にもストリックランドもストルーヴェも、破滅的な結末だろうがどこか幸福感すら覚えるのだ。

正しい狂気というものがあるのだろうか。自らの信じるものに身を捧げることは、我々には困難であり、だからこそ惹かれてしまうのだろうか。

我々はなかなか正気でいたいと思うだろうが、間違えているのは果たして。

冒頭の「わたし」の独白に魅力を感じる文章がある

安定した生活に社会的価値があることも、秩序だった幸福があることもわかっていた。それでも、血管をめぐる熱い血が大胆な生き方を求めていたのだ。安全な幸福のほうにこそ、末恐ろしいものを感じていた。心が危険な生き方を求めていた。変化を、未体験の変化と心の高鳴りを得られるなら、切り立った岩も暗礁も物ともしない覚悟があった。

私がどうも久しぶりにこの本を手にとってしまった理由は、この文章に全て凝縮されている気がする。どうにも作者はこの部分を特に気合いを入れて書いていないだろうか。

危険に懸けてしまったストリックランドとストルーヴェの物語が、第一次世界対戦の時期に空前のベストセラーとなったことは、些か興味深い。

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