神にとってのクリスマス:虫になった神
クリスマスは、救い主の誕生を祝う楽しく喜ばしい時です。
でも、神にとっては、どうでしょうか。
イエス・キリストが犠牲を払われたのは十字架に架けられた時だけではなく、人間として誕生すること自体が大きな犠牲だったことを忘れてはいけないと思います。
御子と呼ばれ、言と呼ばれた神が、救い主として地上に来るためには、どんな犠牲を払わなければいけなかったか、見てみましょう。
力と自由
「宿った」の部分を直訳すると、「幕屋(テント)を張った」となります。
昔、イスラエルの12部族は、移動式の神殿(会見の幕屋)を中心にして、その周りに自分たちのテントを張りました。
幕屋は、目に見えない神が一緒にいてくださることを、目に見える形で示すものです。
同じように、イエスは神が私たちを愛し共にいてくださることを私たちの目に見える形で示し、私たちを救うために来られたのですが、そのために肉体を取らなければいけませんでした。
本来なら何の制約もなく、いつでもどこでもなんでもできる神が、その力と自由をみずから制限して、疲れ、弱くなり、いずれは滅びる肉体を取り、しかも無力な赤ちゃんとして生まれてこられたのです。
身分と権威
「自分を無にする」とは、神としての特権や栄誉を主張しないという意味であり、宇宙の王様の身でありながら、僕(奴隷)の姿で、僕のように生活するということです。
人間として生きること自体が、神にとっては僕の姿となることでしたが、イエスが僕の手本を弟子たちに示されたこともあります。(ヨハネ13:4-15)
富と豊かさ
この貧しさとは、物乞いをしなければいけないほどの極度の貧しさのことです。
宇宙のすべてを所有しておられる神にとって、人間になることは、私たちが物乞いとして生活するようなものでした。
栄光と尊厳
小さくて取るに足りないものを「虫けら同然」と表現することがありますが、聖書にも似たような表現があります。
たとえば、ヨブの友人は、神と比べるなら人間はみな虫に過ぎない存在だと言いました。(ヨブ25:6)
イエスは神の栄光と尊厳を後にして、そんな「虫」となって生まれてきたのです。
そして、受難(イエスが裁判と十字架刑に際して味わった苦痛)は、人から蔑まれる虫の状態の極みでした。
旧約聖書には、こんな預言があります。
この預言が実現したことは、マタイ27:39-43などに記されています。
あなたは、虫を救うために自分自身が虫になろうと思うでしょうか。
神はそうされました。
それが神にとってのクリスマスです。
愛のゆえに
そのすべては、私たちに対する愛のゆえになされたことです。
クリスマスは、父なる神が私たちへの愛ゆえに御子を送ってくださり、御子もまた私たちへの愛ゆえに多くの犠牲を払って人間の姿になってくださったことを記念し、感謝する日です。
そして私たちもまた、神が愛してくださったように、互いに愛し合い、与え合うべき時なのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?