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希望と信仰の「しかし」

「だから」「しかし」などの接続詞(つなぎ言葉)って、会話や文章の内容に感情や意思の表情を加えられる、とても興味深い品詞だなと思います。

昨日は、旧約聖書のハバクク書を読みながら、そんなことを考えていました。

特に、この箇所です。

いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。

(ハバクク3:17)

農作物は台無しで、家畜もいなくなる・・それは一大事であり、「だから」悲しみに暮れてもいいはずなのですが、ハバククはこう続けます。

しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。

(ハバクク3:18-19)

接続詞が「だから」ではなく、「しかし」であるところに、状況ではなく神とその約束を見ようとするハバククの意思が表れ、彼の心にあふれる希望と信仰が感じられます。

でも、最初からそうだったのではありません。

ハバクク書は、「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。・・あなたは助けて下さらないのか」という不満げな問いかけで始まります。(ハバクク1:2)

当時のユダ王国はまったく堕落しており、不正、略奪、暴力、流血、暴虐など、さまざまな悪がはびこっていました。

そんな状態に心を痛めたハバククは、なぜ悪を行う人たちが罰を受けずにやりおおせているのか、なぜ神は彼らを裁かないのか、理解できなかったのです。

でも、ハバククは神との問答を通して、神が正義を貫かれる方であること、また、彼の知らないところで神がちゃんと働いておられることを知りました。

神は必ずしも私たちが望む形やタイミングではなく、愛と憐れみと正義、また全知全能といった神の性質にもとづいて、最善の時に最善の方法で事を行ってくださいます。

神は彼にこう言われました。

この幻【裁きについての啓示】はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。

(ハバクク2:3-4)

ハバククは、自分の物の見方よりも神のやり方やタイミングを信じ、「信仰によって生きる」ことにしたのです。

パウロの次の言葉にも「しかし」があります。

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

(ローマ8:35-37)

この「しかし」という言葉は、ハバククの場合も、パウロの場合も、状況が好転しているからではなく、大変な現実を前にしながら、その向こう側に神が用意されている恵みと救いがあることや、神の愛や力といった目には見えない現実を信じているからこそ出てきたものでした。

私たちもまた、大変なことが起きた時に、「だから(神を疑う、不満だ)」と言うか、「しかし(それでも神を信じる、喜ぶ)」と言うか、選択できます。

もしかすると、「ハバククやパウロには立派な信仰があったかもしれない。しかし、私には無理だ。そんな信仰はない」と思っていますか。

(私たちは、希望と信仰の「しかし」ではなく、あきらめと不信仰の「しかし」を言いがちかもしれませんね。)

その場合、もしイエスにできるのであれば、息子を癒やしてほしいとお願いした父親のことを思い出してください。

イエスは言われた。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」

(マルコ9:23-24 聖書協会共同訳)

自分にはあまり信仰がないと感じる時、私たちに必要なのはただ信じるという意志であり、あとは、神が助けてくださいます。

もし、心に不満や疑いがあるなら、ハバククがしたように、すべて正直に神に話してみてはいかがでしょうか。(それが、彼の信仰を強めるきっかけになりました。)

そして、そのあとは、希望と信仰の「しかし」で神の約束を自分に思い出させることによって、神からの平安をいただき、「主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ」人生を生きることができますように。

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