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自伝的な自己紹介

文字を覚えた保育園児の頃から毎日絵日記をつけ始めたのがきっかけで、「書く」のと「描く」のが好きになり、以来形式は変わっても、このふたつに関わって生きている。

幼少期

京都市生まれ。3人兄弟の真ん中子。男兄弟に挟まれていたため、自分も男子がよかったと思っていた子。毎日泥んこになって遊ぶ。ポケットにナメクジを大量に捕まえて持ち帰ったり、水に泳ぐ蛇をリボンと間違えて掴むなど野生的な子だった。3歳から保育園へ通う。この頃文字を覚え、書くのが楽しくなる。母に日記帳を買ってもらい、毎日絵日記を書く。文章にならないもどかしさは絵を描いて誤魔化す。保育園の先生に提出し、コメントが返ってくることで「読む」と「やりとり」という楽しさも知る。

小学生時代

京都市内のミッション系の私立校に受験し、合格。(自分の意思ではないため試験内容も覚えていない)制服を着て、市バスに乗って通学。国語の教科書にあった「くじらぐも」や「はまべのいす」など、物語を読むのが楽しいと思い始め、国語が好きになる。習い事はピアノ、バレエ、絵画教室、くもん、水泳など。低学年はもじもじとシャイだったが中学年は友達に恵まれ急にイキリ始める。光GENJIが好きでローラースケートに夢中になる。地黒なくせに日焼け止めをしなかったため、夏休み明けには「黒んぼ大賞1位」に輝く。高学年は部屋で音楽を聞いたり、漫画を描いたり、ピアノで作曲したりと創作活動が自分の世界となる。

中学生時代

ミッション系の中学部へ進む。市バスを2回乗り換えて通学。小学校時代から顔馴染みのクラスメイトだったが女子校ならではのグループ社会に飽き飽きする。周りが彼氏がどうこう言い出すが、恋愛って何?っていうくらい興味がなく、さらに女子校であったため、出会いもなく、部活もしないまま、ただ月日が流れる。X JAPAN YOSHIKIさんの刺激的なドラム捌きと美しいピアノの旋律に感動し、自分の部屋の壁をX一色にし、家族に心配される。
10年続けろと言われたピアノをしっかり10年でやめ、6年間のバレエをやめ、代わりにドラムを習う。祖父母宅の茶室にて、週1で奈良から先生を迎えていた流れで茶道を嗜む。(和菓子を食べに行っていた)絵画教室は自由に描かせてくれるマンツーマンの先生の指導を受ける。英語教室にも通い始め、家庭教師が週1で苦手科目を教えてくれていた。

中3の時に、ふと、周りの環境を見て青ざめる。小学校からお馴染みの仲間との時間は楽しかったが、大学までこの環境(女子校)が続くのか、と思うと急に恐怖を感じた。どこか、自分のことを誰も知らない新しい場所に出て新しい輪を作りたい。なんならこのシャイな性格を治したい!青春を謳歌したい!たまたま届いた留学案内の説明会へ行き、無謀にも中3の夏頃に受験を決意。

高校生時代

ほとんどのクラスメイトがそのまま内部進学する中、誰にも言わずに留学のための受験をし、「サクラサク」の合格通知が来たのが信じられなかったが、皆に告げると裏切り者!と指をさされる。いざ、ヨーロッパの永世中立国、スイスへの切符を手にする。
全国各地から集まった日本人校に入学。スイスの田舎村で寮生活が始まる。共学で寮生活、関西弁も標準語も飛び交い、刺激的で楽しい高校生活。チョコレート、チーズ、ヨーグルト・・・大好きな乳製品が美味しいスイス生活でみるみる肥える。高1の終わりごろ、また、ふと考える。「これ、楽しすぎじゃない?」
毎日が楽しすぎて(寮生活なので規則は厳しかったが)恋愛も友人関係も順風満帆な青春生活だったが、楽しすぎて怖い、という訳のわからない感情に悩まされ、高2で転校を決意。と言ってもすぐ隣の学校だったが、「アメリカンスクール」だったため、当たり前だが寮のルームメイトも外国人。学校の手続きやら授業やら集会やら全てが英語になり、様々なバックグラウンドを持つ多国籍なクラスメイトにカルチャーショックを受け、勢いに任せたものの言語の壁トラブルでちょっと悔やむ。でもこれも試練だと捉え、あえて茨の道を突き進む。やっぱり言語が違えど理数は苦手だったので、特殊なIBクラスというカリキュラムの中、描くことだけは得意だったのでARTコースばっかりを選択してグレードの底上げに勤しむ。IB ARTの年間カレンダーに作品が選ばれたのを覚えている。2年間、テーマは「Facial Expression」だった。

大学生時代

結局ARTしか取り柄がなく、進路先は美大しかなかった。当時は帰国子女枠で受験できるART系の大学が日本になかったため、アメリカへ大学進学をする。マサチューセッツ州のボストン市にある美大に合格。よく考えずに行ったはいいが、ひたすら毎日絵を描く日々。だんだん、高い学費を払ってもらってなんのためにこんなことをしているのか、と暗くなる日々。
やっと世間では初代スケルトンIMACが鮮烈デビューした頃。まだそれでもインターネット回線が電話回線に繋がっていた頃。日本に一時帰国した際に、SONYのVAIOノートを買ったのが初めての「MYラップトップ」だった。初めて自分のドメインを取得し、ホームページを立ち上げる。そこに毎日の鬱憤をブログに書き綴っていた。この頃、MIXI日記も同時進行していた。保育園時代と同じくらい最も「書く」ことと「描く」ことに向き合っていた。

遊学時代

大学を4年でなんとか卒業したはいいが、アメリカの適当すぎる居心地の良さに慣れてしまう。とりあえず好きだったアパレル会社に就職したはいいが、出勤初日に9.11テロが起こる。
カルチャーに触れたりアメリカロードトリップを試みたりと時間に縛られない自由な時を過ごす。この頃、短編小説やエッセイを書いて日本の賞に応募する。写真を撮り始めたのをきっかけに、ブログは写真とエッセイ、詩などを書くようになる。自分は何がしたいのか、流れ、流される人生に焦りを感じ、何かきっかけが欲しいと強く願っていた頃。

帰国後

ひょんなことがきっかけで東京に移住。自分で選んだとはいえ、周りの人たちを好きになれず、違和感ばかりを感じていた。話す会話、暮らし、多くの人と一緒にいる時間が多かったけど、いつも「何か違う」を感じていた。心の底から安心できなかった。「人といて寂しさを感じるくらいなら、一人で楽しむほうが性に合っている」と悟り、一人暮らしを決意。美術館に出向いたり、電車に乗って一人で観光したりと、一人行動をするようになる。たまたま暮らした場所の2駅先に小学校時代の友人Aちゃんが住んでいて、よく遊ぶようになる。一人暮らしの部屋には、ベッドなし、テレビなし。ウオーターサーバーと一人用ソファだけがあるのでAちゃんからいつも変てこな部屋だと言われていた。
何人かの創作活動をしている仲間と知り合い、都内のギャラリーを借りて何度かグループ展を開催する。「描くこと」と繋がっている唯一の方法だった。

北の大地へ

ターニングポイントになったのは北海道への移住だった。考えてみればスイスもボストンも冬は寒かった。北海道へ降り立った時は、なぜだか私は寒い地と縁があるなあと思った。この時は私はお小遣い稼ぎ程度にまとめサイトなどのライターの仕事を不定期に請け負っていたけど、ご縁があって外資系の不動産管理会社のブログ(日本語)の外注を受けることとなる。世界でも名を知られる国際スノーリゾートとなったニセコは、顧客ターゲットはほとんどがオーストラリアや香港、シンガポールだったため、マーケティングは英語ファーストだった。ただ、夏シーズンはそれとは逆に市場は国内が主力となるため、日本語でのマーケティングに力を入れ始めたところだった。幸い英語でのコミュニケーションが取れて、日本語で文章が書けたため、日本人に向けてのプロモーションを強化するために外注を受けていたが、なんやかんやでオフィスに顔を出すようになり、外国人のマーケティング担当者との会議に出たりするうちに、外注から契約社員、そのままマーケティング部の日本語を担当するようになる。当初と変わらず、何をするにしても英語ファースト、それを翻訳したり、日本人向けにローカリゼーションを行う。正社員になって間もなく、地域の魅力を発信するフリーマガジン「エクスペリエンスニセコ」を制作するプロジェクトが始まる。文章力を買われ、ありがたいことに日本語版の編集長を任される。

エクスペリエンスニセコとわたし

英語版がリリースして次年度、日本語版刊行。年に一度の発行で、日本語版は夏のニセコの周知がメインなため、ゴールデンウィーク前に発行する。そのため、前年度の夏にはテーマを決め、取材や撮影を始める。これはマーケティング部の業務の一環なので、通常業務との兼任だ。ニセコの夏の魅力を、ガイドブックに載っていない視点で、ヒト80%、モノコト20%にスポットを当てて紹介する。マガジン編集部は私とアシスタントが一人。言ってみればテーマ決めから、取材、アポ取り、カバー撮影、物撮り、執筆、挿絵までこの少人数で行う。エディトリアルデザインは東京のデザイナーさんに依頼するが、ページ割り振りから広告営業まで全て自分たちだ。5人編成のコミッティを社内で結成し、私の意見が偏らないよう、2週間に一度くらい報告会をする。
とにかく雑誌作りで心に決めていることは、丁寧に取材をし、その方々の歴史に少しでも近づくこと。そして、ラッピングをするように、そのお話に優しくリボンをかけて皆さんに共有すること。

2017年1号のこと

初回は、上層部が「来年4月には発行したい」と年の瀬にプロジェクトを決断し、右も左もわからないままみんなで力を合わせて3ヶ月強でなんとか形にこぎつけた、「ニセコのスイーツ。」忘れられない一冊だ。
ニセコの小さな工房で、独学でビーントゥーバーをつくるnicaoさんへの取材では、混じりっけのないチョコレートバーがどうやってできるのかを初めて知ることができた。ニセコにいれば誰もが知っているニセコの有名人をフィーチャーしたコーナー記念すべき第1号には、コンビニでの丁寧な接客が持ち味のファンキーなスタッフさんに取材した。

2018年2号のこと

2018年、2冊目のテーマは「ニセコで育つ。」移住者も多いニセコエリアの教育事情や豊かな自然の育みなどを取材した。92歳のおばあちゃんパン屋さんがニセコの移り変わりを語ってくれた「さいとう製パン」の記事は地域の方からも評価していただけた。
できることは全て自分たちでこなすため、少しでも絵が描ける私が挿絵も担当。この号ではニセコのグリーンシーズンを彩る植物たちを描き、これまでの人生を振り返っても私の軸となっていた「書く」ことと「描く」ことが無駄ではなかった、と、成果物として実になったことが感じられる瞬間だった。

2019年3号のこと

2019年は目に見えないものと日々向き合う職人さんたちに目をむけた「ニセコとチーズ。」多くのチーズ工房が点在するこの地域では、同じチーズ工房でも、工程や哲学がそれぞれに違うのが興味深かった。最初のエッセイ「チーズと紅茶、ときどきアート」の取材では、オーストラリア人の同僚と、アメリカ人のフォトグラファーと同行したのだが、ティーサロンの70代の姉妹と英語でインタビューしたことがとても思い出に残っている。チーズだけでなく、微生物と向き合う職人は他にもいる。「文明的なパンではなく、文化的なパンを作りたい」、と言われたソーケシュパンの店主の言葉が印象的だった。この号では、この地域の野菜のイラストも担当した。

2020年4号のこと

そしてこれまで冬に発行していた英語版も、夏バージョンを制作することとなり、初めての試みで、日本語版「ニセコのお米。」英語版を組み合わせた「デュアルエディション」を刊行したのが2020年。記事の内容も日本と英語で別のものにし、まるで機内誌のような作りで表と裏から別々の言語で二冊の雑誌が楽しめる仕様になっている。この号ではニセコに住む野鳥のイラストを色鉛筆で描いた。この鳥たちを様々な角度で配置し、大きく和紙に印刷した作品は、ニセコのホテルのギャラリーに展示されたのは翌年2021年だ。この号が発行した2020年春に、世界は未知のウイルスに翻弄されてしまう。観光業は大打撃を受け、あっという間に人員が削減され、これまで多様な国籍のスタッフ最大10名で成り立っていた部署が、あっという間に私とベトナム人のグラフィックデザイナーのみになってしまった。当然、売り上げがないならフリーマガジンも作ることはできない。以来、雑誌作りは休止している。

noteを始めたきっかけ

仕事ではPRなどの文章作成やブログ作成、翻訳業務が主軸とはなっているが、自由な発想での創作、感じたことを綴るエッセイ、自分の体験をもとにしたコラムなど、同じ「書く」ことでも、これまで内々で表現していたことを、そろそろ表に出して行っても良いタイミングだと思ったからだ。


地方に行って手に取るフリーマガジンや、ローカルマガジン、小冊子を読んで、あ!と思う瞬間がある。ささやかなエッセイや取材記事でも、「この人の文章を読んでいると、私と感覚が近い!」と妙に親近感を覚える時がある。この言葉を選んでいるのが好きだな、とか、例え方がユニークな上に納得。など、共感できる文章に出会うと嬉しくなるのだ。そんな時は、書いたひとの名前を目に刻む。この方がこの執筆に向き合った時のことを勝手に想像する。
同じように、この広い世界の中で、私の文章を読んで、少しでも気になってくれる人がいたら、ものすごく嬉しい。noteはきっと、そんな繋がりのきっかけになってくれそうな気がする。





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