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わたしと、スキーの話

むしろ国内の人たちよりも海外で知られる、世界有数のスノーパラダイス、「ニセコ」に住んでいながら、私は一度もスキーをしないシーズンがある。むしろ、そんなシーズンの方が多い。今シーズン、わざわざ東京からハイクラスな宿を予約してスキーをしに来た従兄弟にすら、「贅沢病」と呆れられる始末だ。

地元は京都市だが、初めて清水寺を訪れたのは大学生の時だ。それもアメリカの大学時代の夏休みの一時帰国の間に、同じく京都市出身の小学校時代の友人と、いそいそと出かけたのだ。
「近くにある存在だからこそ、いつでも行ける」という気持ちがあるとよく言われるが、それとはちょっと違う。

母親が大学時代にスキー部で過酷なスキー合宿を経験し、それでも雪山が好きで、滑ることに楽しみを見出していたから、父と結婚してからも私たち子供たちが生まれてからも、毎年、毎年、冬になると新潟や長野へスキー旅行へ連れて行った。(新婚旅行ですら、スキー旅行でヨーロッパのアルプスへ行き、何日もかけてシャモニーを軽快に楽しんだそうだ)

赤ちゃんの頃から両親におぶられてゲレンデを滑り、3歳からスキーを履いて両親の後を追い、私が中学生になってもその行事は続いていた。やがて私の中では冬になればスキーへ行く、という家族の行事が習慣化していた。ただ、私がそれを楽しみにしていたかというと、そうでもない。
重たいスキー靴で縮こまった足指が冷たいこと、リフトに乗っている間の我慢大会のような寒さ、重たい板を担いで宿から歩く苦痛さ、ゴーグルの隙間から入り込んでくる雪と曇る視界の鬱陶しさ。

そこに、「楽しさ」が付随していなかったのだ。

やがて私は縁あり、スイスという国で高校時代を過ごすことになる。言わずもがな、ウインタースポーツが盛んな地域で、授業に「スキー」はあった。その時私は、これまでの家の冬の習慣と同様に受け入れた。特に歓喜するでもなく、嫌悪するでもなく、「今年も行くの?」と実家で思っていた気持ちとおんなじだ。

両親があれほど魅せられていたものに関心が持てなかったのはなぜだろう。実際、自分がどんな気持ちで滑っていたのか、よく思い出せない。一人で滑れるようになった時には、兄弟と直滑降で競走したり、バブル期の軽快なJ POPがゲレンデでこだましながら流れていたことなどはよく覚えている。一時は日本のスキーブームでリフトの長蛇の列に並び、内腿に力を入れてカニ歩きで詰めて列を上ったこと、然り。

昨年、20年ぶりにスキーを履いた。高校を卒業した私は、それ以来、ずっとゲレンデから遠ざかっていた。なぜなら「連れて行かれる」行事が自分の中では習慣化していなかったからだ。大学へ入って社会人になってからも、「冬だ。スキーへ行くぞ。」と、昔のようにスケジュールに組み込まれることなどなく、全て私の自由だったからだ。

選ぶとしたら、私は行くことを選ばなかった。単純なことだった。

もう、めいっぱい滑ったから。というほどたいそうでもないが、ただ単純に楽しむにはそれ以外の余計なものが邪魔をするのだ。
「ウエアどこにしまったかな」
「スキーの板も持ってないし」
「レンタルしなきゃいけないし」
「リフト券も高いしな」
「駐車場っていつも満車だし」
「今日は寒そうだし」
どれもこれもつまらない大人の言い訳だ。

20年ぶりに重い腰を上げてゲレンデへ向かったのは2年前だ。かろうじてウエアと手袋、ゴーグルは見つけた。スキーは一式レンタルをした。5時間も無理でしょ、って思いながらリフト券を買った。「ニセコにいながら雪山へ行かない自分」に一旦区切りをつけてみよう。そんなふうに思い立った。20年ぶりに山に立ち、眼下を見下ろし、どんな気分になるだろう。そして、滑れるのだろうか。自分を試したくなった。

相変わらずの寒さ、分厚い靴下を履く気持ち、リフトに乗車する際に太ももに当たる無機質な感覚。リフトを降りるときのタイミング。滑り出す前のちょっとした緊張感。広く、広く、大海原に乗り出すヨットのように、身を乗り出して漕ぎ出す滑走。思い出す、懐かしい感覚。

ヒリヒリと頬に当たる風は痛くも気持ちよい。それに、こんなに体が覚えているのだ。きっと、20年前は一気に滑り降り切れたであろうコースを、私は3度も4度も休憩を入れながら滑りきった。太ももや脛の内側がだるく痛くなった。経年とは、こういうことだ。
レンタル返却の際に、パチパチとスキーブーツを脱いだ。縮こまっていた指が解け、自由になった感覚は、全く昔と変わらなかった。


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