死刑廃止を考える

世界では3分の2の国が事実上の死刑廃止国であり、死刑執行が行われていない。2017年のデータによると、国連加盟193カ国中170カ国(88%)が死刑執行を行わない年であった。死刑廃止国や死刑執行を行わない国は一貫して増えている。

一方、日本は、政府の世論調査で、80.8%の人が死刑制度に賛成、わからないが10.2%、死刑を廃止するべきだという人はたったの9.0%である。(2019年内閣府調査より)
設問が死刑存置に誘導的だという指摘もあるが、わたしが日常で死刑制度について問いかけての反応などを見ていると、だいたいそれを表していると思える。もしかしたら多くの人は死刑制度の実態を全く知らないので、きちんと設問すれば、わからない、保留は80%にまで増える可能性はあるが、積極的な死刑制度廃止の人は1割にも満たないのは事実である。

わたしは、2013年から死刑廃止運動のメンバーに加わり、死刑廃止活動をしている。次に挙げる22の項目は、わたしがなぜ死刑制度に反対するか10年前の加入当時の決意表明の文章を再び検討し、さらに分析的にまとめたものである。わたしが死刑に反対する理由であって、その会や死刑廃止派の総論や一般論とは違う点、まだ述べられていない点もあるかと思う。

私が死刑を廃止すべき22の理由
2023年5月19日 永野哲嗣
刑罰の残虐性
1.刑自体が残虐であり(絞首刑)非人間的である

殺人を殺人で解決する矛盾
2.刑務官が人殺しになる
3.殺人を禁じる国家が殺人をするという矛盾
4.遺族でない人が他人の死刑を望むのはおかしい
5.「死んで当然のこと」は感情論

論理的合理性がない
6.死刑にしても被害者は帰ってこない
7.被害者の根本的なケアにならない
8.加害者にも家族があり人権がある
9.加害者の更生して、被害者を償うという機会をなくしてしまう

冤罪執行を防げない問題
10.冤罪の可能性(実際に日本でも何例もある)
11.社会的弱者が死刑囚になりやすい

犯罪抑止力にならない
12.死刑の犯罪抑止力が証明されていない
13.「死刑になリたい」から殺人実行の問題
14.世界も日本も殺人や犯罪は激減している(事実を報道しないマスコミ)

伝統と国際情勢
15.日本は818年から1156年まで347年間死刑の執行がなかった実績がある。殺生を禁じる仏教の影響(世界最初の死刑廃止国)
16.世界の3分の2(140か国)が死刑を行っていない
17.国連が、死刑をしないよう総会で決議している
18.日本は、国連やEUから死刑を停止するよう30年以上毎年勧告されている

執行までの死刑囚の人権
19.死刑囚は、毎日「死への恐怖」におびえている。(ここが終身刑と全くちがうところ)
20.事件から死刑確定、そして執行まで長期の拘禁になる
21.このような裁判、長期拘禁により、かえって税金がかかる

自分の問題
22.あなたも、死刑になる可能性がある

これに対し、死刑存置派の主張を見ていると、以下のようにまとめられると思う。

・被害者感情の救済
・殺人などの犯罪抑止力 ★
・刑罰の応報性
・被害者や、これから被害が想定される者(女性に多い?)にとって、殺人者が生きていることはそれだけで恐怖
・死刑囚(遺族)の人権と被害者(遺族)の人権が同じなのはおかしい
・現在の日本は、司法が整備され、冤罪が少ない ★
・死刑にしないと、懲役刑や終身刑ではお金がかかる ★

★印は、上記でも述べたとおり、データ上も実際の司法現場でも確認され、嘘である。
また、加害者の人権と被害者の人権を意図的に差をつけるのは、法のもとの平等からして明らかに矛盾することであり、感情論的な歪んだ議論である。ただしわたしは加害者を守れと言っているのではない。被害者(遺族)も加害者(遺族)も守れと言っている。実際、少しだけ被害者救済の制度が最近になって作られたが、まだまだ不十分で、多くの人はマスコミの歪んだ過大報道の中、加害者や被害者の、あるいはその家族や関係者の真の人権を考えず、(自分が)怖い怖いと言って、感情論的に吠えているだけである。きちんとした議論にもならない。

死刑存置派が、最も強く言うのが被害者感情である。わたしは被害者感情には寄り添い、大切にしなければならないと思う。しかしその解決が死刑というのは違うと思う。そしてこの運動を始めてから知ったのだが、被害者が皆、死刑(極刑)を望んでいるわけではないこと、極刑を望んでいた遺族が(死刑)執行によって救われたか?というとそうではないこと、被害者遺族の生活が破綻することもあるが、加害者家族も自殺や離散などによって相当苦しめられていることを知り人間は一様ではないと思った。必要なのは死刑判決や処刑ではなく、双方に対する社会保障ではないか? または殺人が起こらない社会にすることではないか?

この問題について事細かに書くと、一冊あるいは数冊の本になるので、それはまた別の機会に譲るが、わたしが死刑廃止運動をして一番感じたのは、殺人事件というものの構図である。殺人事件も多様であり、単独犯から犯人不明で冤罪を押し付けられた事例まで様々であるが、責任が明確でなく、一体この事件の主犯は誰で、どう罪を償うかにあたって、殺害を指示した親分格が逃げ、あるいは懲役程度の刑に収まり、兄弟分も逃げ、もっとも不器用で人前で立ち回るのが下手くそな人間が殺害実行ということで死刑判決、残りの賢い人が弁護士を通したりして死刑を逃れ懲役刑、ケースによっては無罪になるという構図が結構あるということだ。わたしの調査では10年前だが、このような量刑不当による冤罪は、日本の死刑囚の少なくとも半数にのぼるとみている。実際彼らは、無罪あるいは量刑不当を主張して控訴、確定しても再審請求を続けている。単なる命乞いだとは思えない。

司法関係者の人なら同意してもらえると思うが、裁判が100%公正に行われることはあり得ない。人が人を裁く者だから必ず不公正や冤罪が発生する。人工知能でも無理だろう。冤罪を防ぐ第一歩は、証拠隠滅を図れない死刑廃止が必須であり、みんなの人権上も死刑は廃すべきなのである。

殺人犯が刑務所から出てくるという恐怖も、わたしはそういう話を被害者から聴いたことがあるのでわからないでもない。では、その人の人権を完全に守るために、処刑というものが合法化されていいものか? 処刑は自動で行われるものではない。刑務官という人が犯すもう一つの殺人なのである。ちなみにわたしは復讐権というような権利も馬鹿馬鹿しいと思っている。繰り返し述べているように、人々の意識や波動が上がり、他者への思いやり、犯罪や殺人が激減している現在、必要なのは因果応報や懲罰や処刑ではなく、許しや理想社会の建設である。これは弱々しいことでも空理空論でもなく、超現実的合理的で、魂の強い愛に満ちた行為である。相手を深く許せるものが最も強い人間だと思う。

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