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虹の庭 第2話

 虹の庭②

 ココはしばらくその扉の前で立ち尽くしていた。我に返って振り返ると、虹の庭の絵が飾られていたはずのショーケースは空っぽで、その向こうの薄暗い室内はもう何か月も人が踏み入ったことがないかのように荒廃している。
(嘘でしょ!?あんなに階段を下りたのに……夢の管理人ですって?しかもどこへ消えちゃったのよ?)
あまりのことにココは動くこともできない。
(どうなってるの?)
手にしている札を見た。確かに紳士に渡された札がある。錆びついたドアノブを回してみたが、扉は開かなかった。
(どう見ても随分長いこと使われていない感じだわ……幻覚でも見たのかしら?)
ココは先ほどの大量のお茶の缶が並んだ店内を思い浮かべる。
(幻にしてはリアルすぎる。第一、これは?)
 しばらく札を見つめて立ち尽くしていたが、ため息をつくとそれをコートのポケットにしまい、ゆっくりと歩きはじめた。一度振り返ってみたが、ガラスケースは荒れたままだった。見るときの角度があるのではないかと、もう一度扉の前に戻ってみる。手前からしか見えないとか、正面から45度の位置に立つと見えるとか、何かからくりがあるのではないかと思ったからだ。しかし戻ってみても、やはり荒廃したままであることに変わりはない。何度か扉の前を通り過ぎては戻り、建物から離れて通り過ぎては戻り、さらに道を斜めに横断しながら通り過ぎては戻り……と考えつく限りの歩き方を繰り返してみるが、まったく変化はない。ココは自分もどうかしている、と思い直す。頭がおかしくなったのだろうか。
(とりあえず、何か食べよう。まだ少し寝ぼけているのかも……)
しかしそんなはずはなかった。ポケットには先ほどの札が確かにあるのだから。ココは考えれば考えるほどいや増す混乱に、なす術もなく呆然と扉を見つめる。
(あの中のお茶の一つでも買いたかったのに)
Earthという枠の外にあった文字の読めない大きな缶が目に浮かぶ。
(そうよ、あのへんてこりんな表記の地球外のお茶でも買っておくべきだったわ)
 ココは軽く憤慨したように歩き出し、今度は振り返ることなく駅前へと向かった。

 ココの姿が扉からどんどん遠のいて、角を曲がり切ってしまうと、風化した扉が木のきしむ音とともにそっと開いた。そこから一匹の黒猫が出てくると、扉は再びパタリと閉じられた。

 ココは駅のすぐ近くにある洋食屋の扉を開けた。そこはカウンター席が五つと四人掛けテーブルが四つというこじんまりとした店で、お昼時だったため混んでいたが、カウンター席が運よく一つ空いていたのでそこに座る。目の前で調理をしながら、「いらっしゃい」とマスターらしき男性が快活に声をかける。小柄で筋肉質、年は50代くらいだろう。髪は短めで、日に焼けた腕が半袖のTシャツからのぞく。ココは表の黒板に書かれていた本日のランチを注文した。真鯛のポワレとマッシュポテト、ライス、スープとサラダのセットだった。数分のうちにスープとサラダが、五分もするとメインディッシュとライスが目の前に並べられた。『虹の庭』のことで頭がいっぱいだったココは、一連の出来事を最初から思い返しながら食べ始めたが、先ほどの出来事を反芻することに全意識を使っていて、料理の味もろくにわからないほどだった。

「ごちそうさま」
ココの隣りに座っていた青年がカウンターのマスターに声をかけて席を立つ。
「あ、どうもね。後でさっそく飾らせてもらうよ」
マスターが青年に言った。青年がポケットから無造作にお札を取り出して払おうとすると彼は、
「いいよ、いいよ。今日は久々の再会の記念におごらせてくれよ。それに絵のお礼さ」
と、手を振って青年を遮った。青年はちょっと申し訳なさそうな表情で何かを言いかけるが、目を閉じて首を振るマスターの顔を見て、その好意を受け取ることにしたようだ。
「ありがとう。ごちそうさまでした。うまかった」
青年はそう言って、くったくのない笑みを浮かべ、「じゃあ、また」と言って左手を上げてお店を出て行った。マスターは「また来てくれよ」と彼を見送る。ココはそのやりとりを聞くともなしに聞きながら、無意識に視界に入る青年の姿をぼんやり見ていた。細身で背が高く、無造作に伸びた髪に隠れてはいるが、それでも十分すぎるほど印象的といえる端正な横顔だ。

 「彼、画家でね。あっちの壁に掛かっている絵は彼が美大生の時に描いてくれたものなんですよ」
 マスターがカウンターから手を伸ばし、お皿を片づけながらココに話しかけた。彼が視線を投げた先を振り返ると、奥の壁に風景画が掛けられている。ココはその景色がこの近くの公園であるとすぐにわかった。池の向こうの木々が、まだ芽吹いたばかりの若々しい緑に輝いている。小さな噴水が水を噴き上げ、光を浴びた雫が無数の星のように煌き、水面に虹を架けている。
「きれい……」
ココは思わず呟いた。先ほど『虹の庭』で見た絵がオーバーラップする。
「彼、ハーフでね、イギリス育ちらしいんだけど、大学は日本の美大に通っていたんですよ。ここ数年はイギリスに戻っていたようだけど、今日はしばらくぶりで遊びに来てくれてね、この絵を持って」
マスターは足元に立てかけていた絵をココに差し出した。

 それは雪景色のロンドンを描いた油絵だった。誰もがよく知るテムズ川を臨むビッグベンと国会議事堂を描いたものだが、未だかつて誰も見たことのない世界がそこには広がっていた。
 ともすると互いに溶け合ってしまいそうな雪を被った建物と白い背景を、建物の輪郭を縁取る微妙な濃淡が区別している。降り積もる雪と川に消える雪。そしてそのどちらにも含まれていない、空を舞う無数の雪片。白という色にこんなにもさまざまなトーンがあったのかというほど、何十、いや何百種類もの白が塗り重ねられて、街を立体的に浮き上がらせている。しかし何よりココを釘付けにしたのは、無数の白色が織り成す無音の世界の上空に、高らかにファンファーレを鳴り響かせるように大きく弧を描いている七色の虹だった。それを見た瞬間、心臓のあたりが締め付けられ、胸からのどのあたりにかけて火のように熱いものがこみ上げてきた。腕から首筋、後頭部にかけて電気が走ったように震えが広がる。

 「お客さん、大丈夫かい!?」
マスターが驚いて声をかける。ココはその時はじめて自分が涙を流していることに気づいた。
「え、あぁ、ごめんなさい。どうしたのかしら。なんかすごく感動してしまって」
ココはあわてて涙を指で拭い、大きく深呼吸をした。
「レイがいたらよかったな。自分の絵でそんなに感動している人を見たらきっと喜んだろうに」
絵の左隅にRei Aidaとサインがある。先ほどの青年の名前らしい。
「お客さん、ここら辺の人かい?」
「えぇ。すぐ近所です」
「今度彼が来たら、きれいなお嬢さんが絵を見て泣いていたと伝えておくよ」
マスターはそう言って微笑み、片付けを続けた。

 「また来てくれよ」という声を背に、ココは店を出ると公園に向かった。壁に掛けられていた絵に描かれていた場所を見たくなったからだ。
 公園をしばらく歩いていくと木立の合間から大きな池が見えてくる。噴水があるのはかなり奥の方だ。ココは冬の気配を体に染み込ませるように、池の周囲をゆっくりと歩いていく。絵の中の風景は、若い緑が池に彩りを添えていたが、今では木々もすっかり葉を落とし、渡り鳥が越冬のためにやってきて池でゆったりと休んでいる。しかし抜けるような青い空と、光を反射した水面はあの絵の中と同じだ。
(この辺かしら)
絵に描かれていたのと同じ角度に噴水が見えてきた。道の脇に木のベンチがある。ココはそこに腰掛けてみた。
(ここだわ……)
陽射しが心地よい。青年はここにイーゼルを立ててあの絵を描いたに違いない。何年か前の晴れた初夏に。自分が昼も夜もなく、春夏秋冬も感じられないほど仕事に忙殺され、人間性を失うほど疲れ果てていた歳月のとある同時刻に、時が止まったような永遠の陽だまりをここで描き取った青年がいたのだ。
 時間とは何なのだろう……ココは考える。人はみな同じ二十四時間を与えられているように見えるが、それは嘘なのではないか。本当は一人ひとりまったく違う時間なのではないか。この場所で絵筆を執っていた青年は、地球の中心で、時が刻まれていることにさえ気づかない永遠の安らぎを創り出し、その一方で、自分は地球の一番外周をやみくもに走り回ることで、永遠から湧き出る聖水の泉を凌辱し続けてきた気すらする。
(もう少し丁寧に日々を生きるべきだったのに。季節にすら気づかずに何年も過ごしてきたわ)
 実際ココは、夏の終わりにクリスマスの、年末にひな祭りの、春先にお中元の広告を制作し、それでもすでに遅れ気味のスケジュールに追われ、本当は今が何月なのかという実感がまるでなくなっていた。
 ベンチの背にもたれ掛かり、ぼんやりと池を眺めているとココは少し眠くなってきて目を閉じた。しばらくして足元に何かが当たったので目を開けて見るが何もない。彼女はベンチの下を覗き込んだ。すると一匹の黒猫が彼女の顔を見て、歩いていた足を止めた。ココはにっこり微笑んで「こんにちは」と言い、おいでというように舌を鳴らした。猫は警戒するようにじっと見ていたが、ココが近くに落ちていた細い棒を拾って足元で左右に振ると、それに興味を示し、棒の動きに合わせて目をくるくると動かした。ココは猫をなんとかおびき寄せようと、棒をベンチの下へ入れて揺らしてみたり、それをゆっくり手前に引いたりしてみた。
「ニャー、おいで」
猫は棒の動きに注意を向けていたが、なかなか出てこようとはしない。
(何か食べ物でも持っていればよかった)
ココはそう思いながら棒を揺らし続けていたが、一向に動く素振りのない猫の様子に半ば諦めかけたその時、ふいに彼女の足元に煮干のような乾燥した小魚がおちてきた。
(え?)
驚いてココが顔を上げると、先ほどの青年が小魚の入った小さめの袋を持って立っている。彼はココと目が合うと、「猫を釣るにはこれが一番ですよ」と言った。

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