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片山杜秀「スポーツは野蛮である」(その3:最終回)〜『スポーツ劇』(2016)特設サイトより

KAAT神奈川芸術劇場と地点による共同製作作品『スポーツ劇』。その特設サイトにリレー形式で寄せられたエッセイの紹介です。
第2回目からは、初回の三輪眞弘氏のエッセイ「オリンピックに向かう社会」とイェリネク『スポーツ劇』のテキストから触発されたことを、各執筆者の研究分野と結びつけて自由に書いていただきました。
今回は片山杜秀氏の「スポーツは野蛮である」全3回の3回目です。

※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの本稿掲載ページはこちら

その2を読む

かたやま・もりひで
1963年生まれ。音楽評論家、思想史研究者。専攻は政治学。2006年京都大学人文科学研究所より「戦前日本の作曲界の研究」で人文科学研究協会賞を授与される。2008年『音盤考現学』『音盤博物誌』で吉田秀和賞およびサントリー学芸賞受賞。2012年『未完のファシズム──「持たざる国」日本の運命』で司馬遼太郎賞受賞。慶應義塾大学法学部教授。(2016年時点の情報)

 私は断じて思うのだが、やはりスポーツは野蛮である。スポーツの喜びは相手に血をしたたらせることと神話的底部においてつながっている。サッカーでたくさん血を流して笑い者にもなった少年の私、疑似的な死まで経験させられた少年の私には、そのことが深く刷り込まれた。体育やスポーツは、軍隊や戦争と、それから闘争本能や攻撃本能や破壊の快感や集団的規律の概念とどうしたって結び付く。専守防衛に身を粉にする者を愚かしいと蔑む。許せない。そんな私は断じて思うのだが、サッカーや野球に熱狂する国は特に野蛮である。

|補遺A|

 でも私はサッカーも野球も観戦するのはけっこう好きだし、オリンピックを毛嫌いしているわけでもない。それはやはり人間の本能を刺激する。私のトラウマは、私を、スポーツすることからはある程度、遠ざけてはくれるが、闘争本能や攻撃本能まで消滅させることはできない。だから私は、スポーツを呪いながら、なおそれに喜べる面を普通の多くの人と同じく相変わらず平凡に有し続けている。
 とにかくスポーツは、破壊や戦争の衝動を司る本隊の前を行く、偽装された前衛である。それは平和や健康や美や倫理や道徳や規律正しさの仮面を被ってはいるけれど、その実体は人間の攻撃的な本能に最も忠実なしもべである。前衛も本体も本能に結び付いているとすれば、人間のいる限りそれらを壊滅させることはできない。ならば、以下に如何に入れて安全に飼っておくかということになる。いずれにせよ、それらはなるべくおとなしくさせておくにこしたことはないのであって、本隊は悪しきものだが前衛は別ということはありえない。野蛮なものは魅力あるものだが、それを無批判的に肯定することはできない。

|補遺B|

 昭和初期のことである。右翼思想家、大川周明がクーデターの計画を立てた。実行部隊にそれなりの人数がいる。でも残念ながら事前に計画的に準備できない。そこで当日にいきなり実行部隊を作りだしてしまう秘策を思い付いた。煽動者たちに失業者を集めさせる。日比谷公園に誘導する。そこに臨時の拳闘場を作って、野外で派手なボクシングの試合を、流血を伴ってみせる。むろん無料である。失業者を集めるのにも「ボクシングのいい試合がただで見られるから」という釣り餌を使い、本当にそれを見せるというプランである。その催事は合法的に準備されなくてはならない。とにかく大川周明によれば、ボクシングはスポーツといっても結局は殴り合いだから、内に不満を抱えた失業者たちがそれを野外で見物すれば、興奮をおさえられなくなり、暴力的衝動が最大限引き出されるに違いない。そこは煽動者たちのさじ加減でどうにでもなる。あとは簡単だ。日比谷公園の周囲には政府官庁と大財閥のオフィスが集まっている。ボクシングを見物する失業者の群れは、大川周明のイメージでは、たちまちバスティーユ監獄を襲撃した革命的民衆に変化する。彼らが日比谷と霞ヶ関と大手町を打ち壊す。スポーツによってこそ革命的内戦が開始されるのである。実行には移されなかったけれど。

|補遺C|

 チェコのアニメ作家、ヤン・シュヴァンクマイエルの短篇アニメーション映画「男のゲーム」はスポーツと暴力のつながりを、きわめて本源的かつ、あまりにシンプルに表現している。作品は記録フィルムと粘土アニメとのコラージュである。記録フィルムはサッカーの国際試合での超満員の観客席を撮ったもの。熱狂、熱狂、また熱狂。昂ぶった群衆の姿がこれでもかと映し出す。一方、アニメの方では、粘土の選手たちがサッカーの試合を行うのだが、両チーム合わせて22人の選手たちは、みな同じ顔をしている。つまり集団主義によって画一化され、個性がない。しかもボールの蹴り合いは途中から殺し合いに変ずる。そして最後には22人全員が粘土による身体造型を徹底的に破壊され尽くして死に絶え、その情景を前にした観客の熱狂はとどまるところを知らないのである。

|補遺D|

 中村真一郎に「死者たちのサッカー」という短編がある。1992年に『文學界』に発表された。一種の怪談小説。大学の守衛が夜中にグラウンドに見回りに行く。そこに幽霊が出る。大学病院で死んでいった患者たち。彼らはサッカーをする幽霊だ。守衛は幽霊たちに全身を粘土のように揉まれる。するとサッカー・ボールに変身してしまう。さんざんに蹴られる。翌朝、グラウンドの片隅で発見される。姿は人間に戻っている。でも満足に口をきけない。自分をサッカー・ボールのままと思い込んでいる。心をとざす。入院する。主筋はそれだけ。何のオチもない。しかし脇筋がある。けっこう長い。作家本人の重度の鬱病体験が綴られる。その思い出話だ。入院する。主治医に運動を勧められる。ピンポンをやってみる。長距離を歩く。世田谷から銀座まで歩く。確かに効く。回復が早まる。無心になれるのがよいようだ。手荒いスポーツの代表、サッカー。そのボールにされて丸められ、蹴りに蹴られて人間性を木っ端微塵にされる守衛。蹴る方も、大学病院に入れられるくらいの重病・難病に苦しみ、もしかすると誤診とかもあって、ストレス一杯に死んでいった人々。サッカーの暴力でストレスを解消する死者たち。その暴力に晒され、無気力に陥る生者。一方、お手柔らかなスポーツの代表、ビンポンと徒歩によって、それでゆっくりじっくり癒される作家。主筋と脇筋の対比が面白い。向きの正反対な筋書きが無造作に並行して放り出されている。そういう趣向である。
 もちろん守衛がサッカー・ボールに変身して心をとざして丸まってしまうのは、内向の衝動の象徴的表現ということもあるだろう。カフカの『変身』を思い出す。中村の小説ではサラリーマンの守衛がボールに内向して丸まり、それがしかも作家の鬱病の記と重なる。守衛も鬱病なのだろう。激しい社会の暴力にさらされ続け、ついにアルマジロみたいに硬直したのか。そう思わせる。人が苛まれ変身し動かなくなる。これはもうカフカの『変身』である。毎日疲れ果てて家族を養い続けるセールスマンが虫に変身し、動けなくなり、邪魔者扱いされ、暴力を振るわれ、死に至る。「死者たちのサッカー」は『変身』と類似性が認められるようにも思われる。
 虫やサッカー・ボールにならないためにどうするか。中村真一郎の『頼山陽とその時代』は、若き山陽が広島から江戸へと歩くことで鬱病を治したと特筆大書している。サッカーで血を流すのも面白いかもしれないが、ピンポンと徒歩くらいがやはりちょうどいいかもしれない。みなさん、もしもスポーツが大嫌いでも、適度な運動を忘れずに、心身の健康に留意いたしましょう。

(完)


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