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そこには私のようでいて、また別の観客がいる。〜雑誌「地下室」草号3(2017)抜粋

表紙/うら表紙(デザイン:松本久木 写真:石川竜一)
  • 忘れる日本人《三》……松原俊太郎

  • 石川竜一の意識が地下室で語る……石川竜一(聞き手:赤嶺宏介)

  • 現代日本の忘却術=記憶術のために……桑木野幸司(聞き手:赤嶺宏介)

  • あゝ、レガシー……梅山いつき+地下室編集部

  • 信仰とは芸術にとってひとつのさぼりである――なぜスタニスラフスキー・システムではダメなのか?[最終回]……三浦 基

  • 写真=石川竜一

写真:石川竜一
戯曲「忘れる日本人《三》」松原俊太郎(写真:石川竜一)
「現代日本の忘却術=記憶術のために」桑木野幸司(写真:石川竜一)
「あゝ、レガシー」梅山いつき+地下室編集部(写真:石川竜一)
「信仰とは芸術にとってひとつのさぼりである―なぜスタニスラフスキー・システムではダメなのか?[最終回]」三浦 基

 この連載を企画したとき、知人や友人らから意外にも反対された。今さらスタニスラフスキーについて文句を言うのはどうか、地点の作品を見れば誰だってスタニスラフスキー・システムではないことはわかるだろう、という極めて大人な意見であった。無闇に敵を増やすような真似をする必要もないだろうという心配も働いてのことだろうと思う。
 ちなみに、地点は2011年以来、毎年のようにロシア公演を行っている。今ではモスクワに行けば、まずモスクワ芸術座を表敬訪問する関係までに至っている。楽屋入口を通り抜ければ、ダンチェンコと並んでスタニスラフスキーの胸像が出迎えてくれる。この2人は仲が悪かったので別々の方向を向いているのです、と紹介するのが掟のようで、一行は笑いに包まれる。そして客席ではスタニスラフスキーのプレートが刻印された椅子に案内され、あなたも演出家だからここに座ってください、と勧められる。通路を挟んで、ダンチェンコの席がある。これも仲が悪かったためです、と、客席には再び笑いが起こる。ロビーに行けば、お土産品のスタニスラフスキーのピンバッジをプレゼントしてくれる。最後には、劇場入口にあるカフェ・チェーホフで、お茶をすすりながら、あるときはウォッカを飲みながら(もちろんニシンの塩漬け付き!)、現在のモスクワ芸術座のプログラムの話やロシア演劇界の話で盛り上がるということになる。
 おそらく、このように歓待される日本人の演出家は、これまでもそう多くはなかっただろう。そんな私が、あえてスタニスラフスキーのことをダメ扱いするのは、確かに子供じみたことに映るかもしれないことは、重々知っているつもりだ。彼の功績は私がとやかく言おうが何をしようが、動かない事実だし、歴史的に極めて重要な演出家であることは明白である。この連載でシステムについて、彼の長大な著書である『俳優修業』から何かひとつのレッスンを具体的に取り上げて槍玉に挙げる気が起きないのは、それこそ、本当に子供の喧嘩に成り下がるだろうと思うからだ。こういう時は、思いきって好き嫌いを発動する。私はスタニスラフスキーが嫌いかと問われれば、正直、大嫌いだ。しかし、好きな人のことも理解できると付け加えるだろう。さらに言えば、好きとか嫌いとかそういう相手ではない、と答える優等生になることもできるし、あるいは何も知らないふりをする特待生にだってなれる。読者は、しかしこれを読んで結局、三浦はスタニスラフスキーが嫌いなんだな、ということだけがわかるのだとすれば、まさに、無闇に敵を増やすだけのことだろうと思う。人の悪口を読まされることほど不毛なことはないのだから。でも仕方がないことはやはりある。
 おそらく、この種の問題は、日本人ならば天皇と天皇制について、置き換えることでよく見えてくるのだろう。ほら、読者よ。もういやになったでしょ、考えることが。ましてや好き嫌いとか持ち出すのは勘弁して欲しいですよね。つまり、スタニスラフスキーその人と彼のシステムについて論じるとき、その二つをわけて考えるのが大人の作法であるが、しかし、ここではっきりしておかなければならないのは、その二つは切っても切り離せないものとしていつも抱えておかないと、すぐに本末転倒な議論になるということだ。さすがにスタニスラフスキーは天皇ではないから、基本的人権が彼にあるのかないのかまでを議論しなくともよいだけましだろう。つまり、私はスタニスラフスキー本人を中傷する気もないし、その功績に一応の敬意は表しているし、何らかの形でその恩恵を受けている同じ演劇人としての自覚は持っているわけだ。その上で、何を論じなければならないのかをやはり考えると、そのシステムの有り様と結果なのであろう。天皇その人ではなく、天皇制について議論するということがどれだけ形骸化してゆくかということを、片目で見ながらの作業であることは忘れずにだ。
 スタニスラフスキーは演技に「真実」を求める。それは彼にとってだけではなく、人間にとって普遍的なものだと謳う。俳優ひとりひとりがどう演技をするかという指南は、到達すべき境地に向かい、そこには「真実」の感情があると言う。なるほど、人間誰しも、ふと気がつくと感動したり誰に言われたわけでもなく確信したりすることがあるからして、この教えは至極真っ当なことだと思いたい。ところがどっこい嘘なのである。大嘘だ。観客はそんな「真実」は求めていない、ということに当の彼自身も気がついていなければ、システムを教育する数多の俳優トレーナーも演出家たちも気がつかない。仮に神が生きていた近代以前だとしてそれは変わらないのである。「真実」とは、ひとつの命令によって現実を歪めるし、都合の良い心理主義を生み出すのである。システムは、無防備にその行動の規定、条件を鵜呑みにすることから始まる。あなたは今部屋の中でひとりいる、という設定をなぜ受け入れなければならないのか。根本的疑問を持ってはいけないのである。信仰とは芸術にとってひとつのさぼりである。宗教を冒涜していると誤解されるかもしれないので言い直そう。宗教と芸術は対等であり、その領域を常に侵犯し合う関係にあることに気をつけなければ足下を掬われる。そして、そこに政治が加わる。宗教と芸術と政治は、三位一体だとまず認めよう。そこで甘い誘惑となるのが、人間賛美。人間とは本来……、人間とは常に……、などと普遍性を説く便利な道具に演劇が使われるとき、何とも言えぬダサさと居心地の悪さを覚えるのである。私が嫌いなのは、だから正確にはこの気持ち悪さなのである。もちろん、スタニスラフスキーもそれまでの演劇に対してそれを思ったからこそ、新しくシステムを提唱し、その実践の先頭に立ったのである。ところが、蓋をあければ支離滅裂だった。作家が書いたからといってそれを疑うことなく行われる役作りは、盲目的なヒロイズムを生んだ。生活の名の下のリアリズムでは、王子のハムレットはどうあがいても扱いきれなかった。古典劇からの決別とリアリズム演技はこうした矛盾を抱えたまま、後にハリウッド映画に代表されるような本物のフィクションに取り込まれるという奇妙な結果となった。ロンドンを中心とするシェイクスピア演劇が、このシステムの輸出入に今も忙しいのは、そもそもの意味というものを考えなくなった愚の骨頂である。
 少し早足すぎた。当時に立ち返ろう。『芸術におけるわが生涯』においてスタニスラフスキーは次のようなことを言っている。

若干の俳優や生徒たちが、私の用語を、その内容をたしかめることなしに受け入れ、あるいは私の言うことを感情でではなく、頭で理解したことの方がはるかによくないことだった。さらによくないのは、これが彼らをすっかり満足させ、私から聞きかじった言葉をただちに使いはじめ、私の「システム」によると称して教授しはじめたことであった。

 さあ、大変である。この発言は、当時すでにシステムが劇団内あるいは演劇界の主流を成していたことを示している。そして、すでにシステムが形骸化するおそれがあったとも告白している。若い奴らは馬鹿で何もわかってない、と言っているのである。さて、では何がわかっていないのかといえば、「真実」であるところの感情がわかっていないということに他ならない。つづけて、彼はこう言っている。

私が彼らに語ったことは、一時間や一昼夜で会得し、自分のものにできることではなくて、体系的に、実践的に、何年もかかって、生涯、たえず研究をつづけ、会得したものを習慣的なものにし、それについて考えることを止め、それが自然に、ひとりでに現れてくるまで待つべきなのだということを、彼らは理解しなかった。

 よくある老人の愚痴である。「体系的」とか「実践的」とか「習慣的」といった組織の話と、個人のやる作業を混同している。そして一番たちの悪いのは「自然」である。「自然」の状態になるまでにまさに「生涯」をかけなければならない。それは「ひとりでに現れてくる」らしい。ここまで来ると、愚痴を通り越して、似非宗教である。芸術による宗教への領域侵犯だ。これを私たちが本気で相手にしてよいわけがない。人間味を武器にすると、演出家はここまで勘違いするのである。大先生の誕生は、後世に小先生たちを増殖させた。今も世界中にあるほとんどの演劇大学で、何らかの形でこのシステムが採用されている現実は、もはや不幸としか言いようがない。私は演劇の大学を卒業した者である。もちろんそこでシステムを勉強した。大先生が憂慮した若い学生たちは、今日もごろごろいるのである。謎の「真実」を強制され、どこにあるのかもしれない感情をめぐって、怒られたり褒められたりと幼稚なレッスンは100年を経っても続いている。これは驚くべきことだし、悲しい事実である。
 私は大先生を支離滅裂だと言った。そして次に起こることはといえば、小先生たちは、この私の敵対に付き合わない場所に逃げ込むのである。自分が小先生であることを、つまりリアリズムの信者であることを明確には認めずに、リアリズムを擁護する立場を取るのである。そのとき、小先生は私と同じふりをして、なんと大先生を批判したりもするのである。スタニスラフスキー・システムは、当時、モスクワ芸術座が採用したひとつの演技システムに過ぎないし、リアリズムの礎を作ったことは間違いないが、必ずしも演出がよかったわけではない、とか、心理主義に陥り過ぎた傾向があったのではないだろうか、とか言い出すのである。そして小先生たちは、システムを少しづつ変形して教育に用いる。他の小先生がやっていることが気に入らないと、なんとなんとあれは亜流だと言い出すのである。もはやこれは恥の上塗りである。演劇が観客から離れ、内部崩壊を招いているこの事態は、当然、社会から無視される。あるいはゴシップとしてまだ少しは有効か? だとすれば、スタニスラフスキー・システムは、「スター」システムに持ってこいとなるわけだ。リアリズムの演技は、劇映画にその場所を譲ったのである。このことは歴史的に見て極めて重要な案件である。だってスクリーンの向こうでは人はリアルに死ねるのだから。ヒーロー、ヒロインは死んでなんぼの世界に生きるのである。このスクリーンによってこそ、本当の意味での第四の壁が築かれたと言ってよい。まさに向こう側の出来事が成立してしまったのである。
 フィクションにおける死の受け止め方について、わかりやすい例をあげよう。モスクワ芸術座のシンボルマークはかもめだが、これはチェーホフの『かもめ』で成功したことに由来している。この近代リアリズム演劇の先駆けとなった歴史的代表作において、当時、何が起こっていたのかを知るおもしろいエピソードがある。この戯曲は、主人公である青年トレープレフのピストル自殺で幕切れとなる。例のごとくチェーホフのことだから死体を舞台に登場させるわけではなく、別の部屋で彼が自殺するために発砲した銃声だけが舞台に聞こえるという仕掛けであった。客席は、その銃声に驚かされるとともに悲しみに包まれた。幕切れにおける主人公の死によって、場内は異常な雰囲気となった。それを察知したプロデューサーはカーテンコールを前に挨拶に出たという。「みなさん、大丈夫です。トレープレフ君は生きています。なぜならば、明日も本番がありますから」。なかなか粋な計らいだと、現代のわれわれはこれを笑って済ませられるだろうか。ちなみに『かもめ』以降、チェーホフは劇で主人公を殺さなくなった。
 確認しよう。当時、写真技術は誕生してはいたが、まだ本格的な劇映画はなかった。つまり、スクリーンで動く人間のドラマはなかった。観客は、第四の壁をスクリーンとして、劇は向こう側にあるものとして、演劇を見ていたのである。つまり、現代に生きる私たちが映画を見て、主人公がラストシーンで衝撃的な死を迎えたとき泣くのだとしたら、この時の観客と同じなのである。ただし、映画の場合にカーテンコールはない。これは何を意味しているのか。写真は時間を止める。その昔、写真を撮られると魂が抜かれると思った人々は正しかった。映像はそれをつなぎ合わせる。つまり記録されたものを私たちは見ている。言い方を換えれば、すでに終わったものの集積を見ているのである。だから、スクリーンの向こう側に、すでに死んだものを見ているのである。それをフィクションと呼んで差し支えない。すでに終わったもの、記録されたものとして受け止める方が、観客は物語を弊害なく受容できる。せっかく感情移入していた主人公が死んだのを見て悲しんでいるのに、のこのこカーテンコールに出てこられたら、私のフィクションが台無しなのである。システムは「役を生きる」ことを勧める。もし役になりきっているならば、死んだ者が生き返ることはできないではないか! 「自然」を受け入れることに本当に成功したのなら、なぜ今日も決められた時間に開演して舞台にあの人がいるのか、誰が納得するものか! 
 ここではっきりさせておきたい。嘘なのである。全部、大嘘なのである。システムが促している役作りなど、その場しのぎの隠れ蓑なのである。そこに逃げ込める才能あるナルシストだけが、自らが嘘をついていることにすら気がつかないだけの話である。しかし、観客は、いつだって勘付いている。だからこそ、プロデューサーはカーテンコールを前にうすら笑いを浮かべて出ていくしかない。リアリズム演劇は、本来であればカーテンコールをしない道を歩んだのである。カーテンコールをしないということは、観客に挨拶をしない、つまりある場所に一度に集まった人間たちと対峙しないということである。システムが第四の壁を理由に観客を無視する道を助長しているのは、だから正しい。しかし、演劇としてはまったく正しくないのである。
 言うまでもなく演劇の生命線は、革命である。(ああ、こうするっと書いてしまった私は遠さを感じる。演劇を手放した国にいる私、と私たち。)革命とは、ある場所に人々が集うことから始まる。それまでの既成概念を疑うために、観客は自分ではないまた別の観客を必要とする。群衆とは疑い深い人間の性の集合である。少なくとも劇場は、とにかく集まってしまった人々を相手にする場所である。近代という時代に神は死んだ。その後の混迷は当然だったかもしれない。近代以前、神の名のもとに民衆がとりあえずでも集合できたことはある意味、幸せだったのだろう。近代リアリズム演劇、このしどろもどろな営みが、今日まで続いているというのだから不幸中の不幸だ。そこでは革命なんて起こりっこないのである。いや当のロシアでは起こった。現代日本の観客よ。感情移入したいんだったら演劇は見ない方がよい。劇映画も少し疲れてきている今、じゃ、何を見ればよいのか? アニメなんだろう。感情移入できるのは、今日、実写の人間ではなく絵に描かれた誰かなのである。その屈託のない誰かは、私のようにも思えるから。アニメ映画のことを悪く言うつもりは毛頭ない。しかし、あれは本来、断じて子供が見るものなのである。演技を見つめる観客の視線の先、つまり感情移入する対象としては、映画スターでもちょっと厳しかった。飽きることにうすうす気がついていた観客はもうスターにもついて行かない。その代替がまさかアニメになるとは。スタニスラフスキーもびっくりだと思う。
 演劇が映画になりさらにアニメになった。これがリアリズム演技のなれの果て。そんなに悪くはないだろう。技術革新が新しい形態を生み出したわけだ。しかし、その根底に流れているものが感情移入とは情けないではないか。その結果、なんとアニメ映画というリアリズムとはかけ離れた手つきのものが選ばれたのである。ナウシカは永遠にナウシカ。失礼、アニメのことを悪くは言わない。私は別にナウシカが嫌いではない。スクリーンの向こうにあったフィクションは、テレビにまで押し込まれることになった。こうしてどこの家にも、軟弱な第四の壁が出現したのである。問題は、無防備な依存なのだ。私はテレビを消す。きっとあなたも消すだろう。大人だから。私たちが消したものは、感情移入、すなわちスタニスラフスキー・システムである。真実はそこにない。自然なんかやってこない。今こそ、感情移入の病から抜け出さなければならない。私はそう思う。
 そろそろスタニスラフスキーから離れたいと思う。この決断をした者は、当然、茨の道を歩むことになる。たとえひとりでも劇場に帰らなければならない。なぜならばそこには私のようでいて、また別の観客がいるからだ。演劇が集団芸術と言われるのは、劇団がそうであるというよりも、観客が集団だからに他ならない。実は、この集団は革命の種を探しているのだから恐ろしいのである。第四の壁は、嘘の窓に過ぎない。描かれる絵は、真実味を纏う。メディアになることで、神々は嘘を反転させた。あらゆる宗教画に見られる行為、偶像化は劇場には必要ない。だからそこにはスターは生まれない。この事実を、昔も今も観客は知っていたし、知っているのである。今はなぜか忘れがち。でも忘れている人を見れば私だって思い出す。あなただって思い出す。演劇はただそれだけのことを望む。ああ、ただそれだけのこと……。

「信仰とは芸術にとってひとつのさぼりである
―なぜスタニスラフスキー・システムではダメなのか?[最終回]」三浦 基

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