論理と放流
演劇を通して、知った言葉「超目的」。
超目的……その役が生涯を通して達成したい目的。
ほとんどの場合、役は「超目的」を明確に把握していないことが多い。けれど行動の根っこはその意識(「超目的」)に突き動かされているため、演じるにあたって、そのあたりを言語化しながら、役を掘り下げていく。
日常を生きる僕たちも多くの場合、「超目的」に無自覚で、僕もほぼ無自覚だ。(「いい匂いがするから、あっちへ行きたい。」とか、せいぜいそんなものだ。)
とある戯曲読解のWSではじめて「超目的」に触れた時、僕が読解していた本が三好十郎の「炎の人」だった。印象派の画家ゴッホの話。
彼の超目的を探る。
戯曲の冒頭の方で、彼が厳格な聖職者であったことが書かれている。その後、画家に転身するが、聖職者であったころも画家の時代も、ゴッホの「貧しい暮らしの人たち」への眼差しは変わらない。
超目的についてはじめて触れた僕は、はじめこの「貧しい暮らしの人たち」に対しての救済の思いが、彼の「超目的」の根っこに繋がっているのではないか、だからわざわざ聖職者である時代のことが戯曲に書かれているのではないか、そう解釈してみていた。「人の役に立つ何か、人を助けることにまつわるその付近」に、「超目的」があるのかなあと。
『その「貧しい人たちを救おうとすること」で彼は何を得ようとしていると思いますか?』
WSで講師に提示された問い。
「誰かのために〜」は決して「超目的」にはならない。
「誰かのために〜」を通して、彼は何を達成しようとしているのか。「誰かのために行動」することで彼にどんなメリットがあるのか、そんなことを掘り下げていくことになった。
メリットやデメリットという言葉自体に、僕はなんだか「打算・計算・利害」というような印象があり、あまり好んで使う言葉ではなかったのだけれど、使おうが使わまいが、実際のところ、人は(常に!)メリットとデメリットを天秤にかけて、行動を選択して生きている。
演劇に関わっていて、自分の身体の奥に染み渡るような発見や体験をすることは多々ある。「超目的」を学ぶ過程で僕は、演劇に携わること、役者として役に向き合うことの、「残酷さ」「本質と向き合う強さ」のようなものに触れた心地がした。
「貧しい人々を救うこと」を通してゴッホは何を得たいのか。
もちろん画家としての側面も彼を構成する大きな要素。「画家として大成すること」で何を得たいのか。
欲望の薄皮を一枚一枚剥いていったら、その先に何があるのか。
ゴッホの話に戻る前に、少しだけ寄り道を。
昨年、別の戯曲読解WSに参加していた時、とあるシーンの役の目的を分析していた時に出てきた言葉がある。
「自尊心の救済」。
僕が提案した目的ではないけれど、この言葉を聞いた時に、「これしかない!!これ以上的確に役を照らす言葉はない!」と感動したことを覚えている。言葉は時に、一瞬にして物事の輪郭をあらわにする。
その役は、非常にコンプレックスの強い役だった。そのコンプレックスを(つまり自尊心を)救済したいがために、人を脅し窮地に陥れて、自分がなんとか優位に立とうとする。最終的にはひょんなことから、彼にハッピーな出来事が起きて、彼は自らが出した脅しを撤回する。自尊心に回復の兆しが見えて、脅す必要がなくなったんですね。なんなら、脅しを撤回するという(ある種の善行)も自尊心の救済に繋がるようにも思える。
話は戻って画家の話。
ゴッホも前述の役と似たようなところがある。コンプレックス、自尊感情の低さ。攻撃的なところ。卑屈さ。
そんな彼にとって「誰かを助ける/救済を願う」とはどんな行為なんだろう。
さて、一気に結論に飛びます。
結局、WS中、彼の「超目的」は、
ずばり「愛されたい」か「認められたい」、
そのあたりの場所に落ち着いた。どちらかを選んだ。(もちろん、「解釈」なので、厳密な正解はない。)なんだそんなことかって思うほど手垢のついた言葉「認められたい」だけれど、目的の皮をもうこれ以上剥けないぐらい剥いていくと、大体このぐらい抽象的な言葉になっていく。
誰かに認められるための手段が、「絵」であり、「貧しい人の救済」。
それは、とても腑に落ちると共に当時の僕には、なんだかエポックメイキングな体験でもあった。出した答え自体が衝撃だった訳ではない。どんな善行も他者に対しての思いやりも、それらすべては、当人にとってのメリットがあるから行なっているということ、平たくいうと「愛情深く見える行為も、すべからく何かの目的達成の手段」に過ぎないという分析・考え方に強く影響を受けた。
それは例えば、「愛情」を分解して、その後ろに何があるのかを解剖していく作業のように思われた。役の心臓を掴むために、表向きのきらびやかな部分を一旦全部剥がして奥底を覗き込んでいくような。
「人ってそんなにも利己的なの!?」と少しショッキングな心地がしつつ、感嘆符をたくさんつけた付箋がいくつも心の中に貼られた。
「誰かを助けること」はある地点では目的だけれど、さらに目的を掘り進めると、「誰かを助ける」ことを手段として、その役は何かを達成しようとしている。もちろん、ほとんどの場合、役は裏の裏の目的みたいなことは意識していない。考えもしない。(あれ、裏の裏は表か、まあいいや。)「川で溺れている人を助ける」時に「よしこれで目的が一つ達成される」とほくそ笑む人は、基本的に知的な悪役だ。多くの人はあまり考えず、とりあえず助ける。(か、見て見ぬふりをする。)
「誰かの喜びを寿ぐこと」も「大切な人に数十年寄り添って看病すること」も、すべてその役が選んで選択している。「そうすることに当人にメリットがあるから」という言葉は、あまりにもドライで、「いや、それは心からの愛情や真心で、それより先には掘り進めないと判断しません?!」みたいな心地にも、なった。
というか、厳密にはその心地が、ひっくり返った。
どんな時も、例えば、「こんなことしたくない」と嘆きながらブラック企業で働く人も、そうすることにメリットがあるから胃腸の具合を悪くしながら働いている。
「何かを手に入れようとすること」それ自体が生命力で、その役の生命力の根っこと向き合うこと。そして、それは板の上でも下でも同じこと。自分の根っこ、本心と向き合うこと。時に、それは見たくない自分や見たくない他者を見てしまうことでもあり、そういう意味で「残酷な仕事だなあ」と20代の僕は思った。(今はもう、「当然そういうもんだ」ぐらいの気持ちで入る。ニュアンスが難しい。「そこから始めよう」というような意味での「そういうもんだ」。)
僕の場合、実際に俳優として毎公演「超目的」を設定しているかと言えば、そうでもない。そこを決めてもあまり収穫がなさそう、自分のエンジンにならなそうと思ったら、採用しない。
でもそれより、「超目的」を知るにあたって、「えーーーー!”やさしさ”って手段なのーーー?!えーーーー。なんかなーーーー。」って体験をしたことが、1番の宝かも知れない。
「全ての行動には徹底して目的がある」
心理学の本を読んでみると、全くおんなじ考え方に出会ったりする。その度に、演劇で学んだこととブレンドして、今では何をどこから輸入したのかすっかりわからなくなるぐらい僕の中で勝手に混ざり染み込み芽が出ている。
俳優っていうのは「人間」に対してのスペシャリストなのだな、というようなことを昔思ったことがある。今はなんだかおごっている感じがしてそんなこと言うのも思うのも抵抗があるけれど、心理学よろしく何百人ぐらいの他者のことを想像して、自分ごとにして、なんか、変な仕事!何これって時々思う。
誰かを傷つけることは、苦しいことだ。
けれど、誰も傷つけずに生きることはできない。
人と人との間に「線引き」を簡単にしてしまうことに抵抗感がある。
けれど、何かを「好き」というポジティブな気持ちが生まれた時、同時にそこには半自動的に「きらい」あるいは「好きではない」ものが発生してしまう。線が引かれる。「心の底から好き」とか「好き」がつぶさに洗練されるほど、両の手からこぼれ落ちる「好きではないもの」が増えていく。これどうしたらいいんだ、そんなことを思っている。
「誰かのため」という言葉は、状況が変わった途端に「誰かのせい」に簡単にすり替わってしまう危険があると思っている。だから、どんな行いも「自分のため」の決断にしないと、責任転嫁が発生する。
何からのトラブルが起こった時、大抵の場合、どちらかが被害者なのではなく、どちらも「自分こそが被害者だ」と主張して譲らない。個人の間でも国家間でも。
人がそもそも完璧に利己的であること、その上で、人は他者と関わらなければ生きていけないこと。他者がいなければ、「自分」さえきっといないこと。
そして、ちゃんと利己的であることが、もしかしたら愛情の源泉でもあるかもしれないと思うこと。
僕がお芝居や映画で観たいのは、他者を愛する強さで、それは同時に自分を愛する強さでもあるのだと思う。積極的に自分をぞんざいに扱う役が、他者をぞんざいに扱うお芝居を「これが現実だ」というように提示されると「いや、人はもっと強い」と反論したくなったりする。もちろん人は、もろくて弱い、けれど、僕が感動するのは、そこに垣間見える「強さ(美しさ)」で、弱さの誇張は、ちょっと露悪的だなと思ってしまう。
書くことは怖い。
「自分はここにいる」と告げることは、「自分はあそこにはいない(いかない)」と告げることでもあり、「あそこにいる人」はこれを読んでどう思うのだろうと思ったりもする。
それでも選んで生きていく。ここにいなければどこにもいない。
作家ってやっぱりすさまじい。勇敢だ。
きっとずっと揺れ動いて、人と人との間で傷ついたり傷つけたり、愛情を交わし合ったり、引き裂かれたりしながら生きていくのだろうと思う。
「愛情を分解/解剖」という言葉を先に使ったけれど、そもそも「愛情」というものの正体が僕にはいまいち分かっておらず、ともすれば「愛情」という言葉は危険でもあると思っている。人は「愛情」からDVもすれば、「愛情」の名の下に人を支配したり、「愛情」から人をあやめることさえできる。(それが本当に「愛情」なのかどうかは置いておいて。)
また、解剖する際に「見たくない自分を見る」かも知れないとも書いた。しかし、これは同時に、「見られることを待っていた自分を見る」こと「自分が本当に喜ぶことを探すこと/もしくは再発見すること」でもあると思っている。
さいごに
「好き」が増えれば「きらい」が増えてしまうと書いたし、論理的にそうなんじゃないかと思う自分もいるけれど、同時に、そうじゃなくとも生きられる気もしている。
もっともっと「好き」にスポットを当てて、「好き」を育んで、その大きく育った「好き」の大樹が「きらい」を覆い隠してしまうような、隠すっていうのは少し違うかな、でもそんな。
なんかそんなハピネスな場所に行けるんじゃないかと思っている。
同時に僕、なんだかんだ頑固だしなあ〜、どうなることやら、と思っている。
正直、今回何が言いたくて書いたのか、自分でも分かっていない。
何かが蛹で、何かの過渡期なのだ。僕の中で。
蛹の殻の隙間。その隙間から溢れ出た言葉の放流みたいで、少し怖い。それでもそのままにしてみた。やっぱり自分では自分の「目的」はすぐに把握できないみたいだ。あ、でも、「超目的」の話はなんだったのかと聞かれたら、「この後半の放流のためのマクラです」と答える。そんな気がしている。前菜です。マリネです。
論理と放流。
また来月。
P.S.最後に読み返していて、ふと思ったことがあった、「好き」を大きくすることは大切だ。けれど、「きらい」を認める、受け入れることも同じぐらい大切なことだ。ふと、そう思った。ネガティブな自分をなかったことにしない。悲しみをすぐに箱の中に入れて押し入れにしまわない。(だいたい引っ越すまで忘れている。)鎮痛剤の使いすぎに注意。なかったことにできるのは薄皮あたりだけなのかも知れない。
藤尾勘太郎の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m065061bc1fa1
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