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知らない誰かからもらった

仙台の真田鰯です。3回目の投稿となる今回も、「わたしが演劇へ向かう動機となった人との出会い」についてのお話です。


東日本大震災後の、2011年3月下旬から4月下旬頃。
避難所となっている被災地の小学校に通っていた。
「遊び場を失った子どもたちのために、安全・安心な遊び場を提供する」という仕事で、小学校の一室を遊び場として開設し運営していた。

2011年3月11日、それまで働いていた職場が物理的に潰れて、私は職を失った。
その後一週間は、水を汲みに行ったり、列に並んでガソリンを入れたり、長蛇の列に並んでスーパーで食料を調達したりして過ごした。長い列に並んだのはディズニーランド以来だが、もちろん楽しいアトラクションはなく、わずかな食料を抱えて背中をまるめて家路についた。一週間後に水道もガスも電気も復旧してしまうと、はたとやることがなくなった。あまりにもやることがないので、久しぶりにファイナルファンタジー10でもやろうかとプレステ2の電源を入れた。わりとゲームの冒頭で、津波で街がまるごと沈んでいた。「絶対にこんなことをしている場合ではない」と思った。翌日から上記の仕事を始めた。

当時は公共交通機関も動いていなかったため、手練れのタクシー運転手が、我々を被災地まで運んでくれた。通れる道は、日によって変わった。川に車が突き刺さり、中央分離帯には巨大な缶詰が転がり、折れた電柱の後ろで、どこまでも青い空が広がっていた。

小学2年生だったMは、そんな景色によく似合う混沌を抱えていた。大人はすべて「クソジジイ」ないしは「クソババア」と呼ばれた。得意技は飛び蹴り。物を投げて人にぶつけるのも、かなりの腕前だった。大人と両手をつないで、くるんと回るのも上手かった。水が出ず、手を洗う代わりにアルコールを手に吹きかけていたため、Mの手は荒れて血がでていた。血が出ている荒れた手で、上手にくるんと回った。
Mはトランプも上手だった。小学2年生だったが、巧妙に年上の子どもたちを負かしていた。

ちなみにこの「相手を負かして自分が勝つ」「他人との勝ち負けを競う」ような遊びは、現代の資本主義社会に生きていると当たり前のように思える。あらゆるスポーツ、カードゲーム、ボードゲーム。遊びは、大人になって社会にでるための訓練だから、出ていく社会の形に合わせて設計されている。
しかしながら、住んでいる社会の価値観が違うと、これは当たり前ではない。
パプアニューギニアの伝統的社会で観察された、バナナを与える遊びについて紹介しよう。

それぞれの子どもが自分のバナナをふたつに切って、ひと切れを自分で食べ、残りのひと切れを別の子どもに差し出し、その子どもからひと切れをもらう、ということをするのである。そして、最初の半分のひと切れを食べ終わると、残りの半分をまたふたつに切って、そのひと切れを自分で食べ、残りのひと切れを別の子どもに差し出し、その子どもからひと切れをもらう。

ージャレド・ダイアモンド『昨日までの世界』よりー

これを5回繰り返す。
伝統的社会では、社会の成員が助けあい、分かち合うことが非常に重視される。この社会の子どもたちが遊びの中で培うのは、だれ一人取りこぼすことなく、助け合って生きる精神である。
世界の仕組みを変えるには、子どもの遊びから変えるしかない。

ここで、うちの息子が幼稚園のときに教会の牧師さんを相手にやっていた、優れたトランプゲームも紹介しよう。

最初に5枚くらいずつ、トランプを配る。
手元のカードの数を足し算する。
数が大きくてめっちゃうれしい。
息子が山札から一枚トランプを取る→手元の数に足す→数字が増える→めっちゃうれしい
牧師さんが山札からトランプを取る→手元の数に足す→数字が増える→めっちゃうれしい

ーうちの息子が考えた遊びよりー

これを延々繰り返す。
みんな幸せにしかならない。しかもますますどんどん、幸せになっていく。すごい発明だ。
ごく控えめに言って、うちの子、天才。
試してほしい。

避難所の遊び場にきていた、もう一人の子どもも紹介しよう。
Tは耳が聞こえなかった。当時5歳だったかと思うが、言葉が通じないので知的にも遅れていた。他の子とコミュニケーションがとれないので、一人で好きなようにふるまっていた。「部屋から出てはいけない」というルールを言葉で伝えることもできず、誰かひとりマンツーマンで大人がみていることになった。
その日もTは、自らカギを開け外に出て行ってしまったので、私が追いかけた。心地よい春の日差しの中、外階段を上り下りした。
春の陽気に誘われて、私も気分が良かったのだと思う。耳が聞こえないとか深く考えなかった。なんとなく面白くするために、階段を一段上るたびに「プウ~ン、プウ~ン」と変な音を口から出しながら登っていた。
するとどうだろう、隣を歩くTも笑いながら「プウ~ン、プウ~ン」と言い始めた。
…あれ、耳って聞こえないんじゃないんでしたっけ。
その後、プオ~ンだのペニョ~ンだのいろいろ試してみたが、いずれも上手に再現できている。
Tの耳は、聞こえていた。

帰りの車の中で、情報を共有し、状況を検証する。その中で「そういえば、母親がTに話しかけているのを見たことがない」という話になる。Tの母親はすでに初老で、いつも背中をまるめてうずくまっている。「母親がなんらかの障がいを抱えている可能性もある」という話も出る。ひとまず我々にできる対応として、できるだけTに対する話しかけを行うことにした。
その後の数週間でTは言葉を獲得していった。

もう一度Mの話に戻ろう。
その小学校では遊び場として2部屋教室を借りていて、「静かに遊ぶ部屋」と「暴れん坊ひろば」に分かれていた。もともとは「暴れん坊ひろば」などという物騒な名前ではなかった気がするのだが、「暴れん坊ひろば」の教室のドアを開けた瞬間に、フルボリュームで奇声を発しながら暴れまわり始めるので、そのような名前になった。もっとも、積極的に奇声を発していたのも名付けたのも私だが。
その部屋では主に、「津波ごっこ」が流行った。
これも紹介しよう。

①ブルーシートの上にできるだけたくさんの子どもを乗せ、大人2人がそれを引っ張る。
②「ファンフォンファンフォン、火事です、火事です、ギューイギューイギューイ」とサイレン音を口で鳴らす。
③「津波がきたぞおおおおおお!!!」という掛け声とともに、すべての子どもたちをブルーシートからひっくり返す。
④子どもたちは、もみくちゃになりながら、ブルーシートに埋もれる。
⑤めっちゃたのしい。

ーみんなで考えた津波ごっこよりー

これを子どもたちの気がすむまで、延々繰り返す。
子どもたちは大はしゃぎだが、大人たちはとてつもなく疲れる。
30分も繰り返すと、大人たちは下の絵のようになる。

イリヤ・レーピン「ヴォルガの船曳き」

ちがうだからMの話だった。
ある日、暴れん坊ひろばに入っていったMは、椅子の上に立ち、当然すさまじい剣幕で私に向かって叫び始めた。
「ナス買ってきなさいよおおおお!!!あんたがナス、買ってきなさいよおおおお!!!!」
おい、どうした。
全然理解できないと思う。補足すると、当時は自衛隊の炊き出しが一日一回程度配布されていた。当時聞いたのは、うどんとか、そんなのだ。ナスを食べたかったのだろうか。おそらく「ナスでもいいから食べたい」とか母親に言ったのではなかろうか。その返しを、母親からこの剣幕で言われたのだろう。
まあ、しんどいよね。

そんなMの心をひらいたのは、私ではなく、大学生のスタッフだった。
暴れん坊ひろばで、Mと2人で獣のように吠えたらしい。
しばらくの間、吠えていたらしい。
それが終わると、Mは、人間になった。

一か月間の終盤のあたりだったかと思うが、MがTとトランプで遊んでいた。先日まで言葉も一切通じなかったTに、トランプのルールを教えるのなんてどう考えても無理な気もするのだが、Mはなんども優しく丁寧に教えながら一緒に遊ぼうとしている。しかし意に介さないTは手元のトランプを投げ、げらげら笑っている。
Mは困ったように言う。
「そんなふうにされたら、ぼくだって優しくできなくなっちゃうよぉ」
そうかお前、優しいやつだったか。
そういえば知ってたような気もする。

その後、ゴールデンウィークにMとは再会した。
支援物資として届いたものなのだろう。Mは、知らない誰かから譲り受けた赤い帽子をかぶっていた。
知らない誰かからもらった赤い帽子は、Mによく似合っていた。



真田鰯の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/me0d65267d180


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