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ITコンサルタントの人生録 ミスター・ストイックな学生時代編

平素はALT+(オルトプラス)編集部の記事に興味を持っていただき、ありがとうございます。

ALT+で編集長を務める私はいま、とても充実した毎日を送っています。50歳を目前に、かねてから目標にしていた「独立」を果たし、若き時代にいろいろと苦労した経済的・時間的・精神的な束縛から解放され、自分の人生を堂々と生きている心境です。

ここに至るまでの道のりは、決して順風満帆ではありませんでした。
学生時代からいつの間にか強いられる「競争」に対して、「勝つ」ための努力はしてきたつもりです。その結果得られたものは多くあります。逆に、犠牲にしたものも多かったのだろうとも思います。何が自分にとって正解だったのか、自分も含めて、誰にもわかりませんが、少なくとも、いまを過ごす毎日が生き生きしていて楽しく、後悔がないので、たぶん正解なのだろうと思っています。

物心がついた頃の自分は、控えめなことをカッコいいと思っていたのか、一歩引いたスタンスで物事を見ていたような人間でした。小さな自分の世界で、世の中を悟ったかのように語りたがる。若き時代は、それが「遠慮」と映ったかもしれません。確かに正直な話、堂々と振る舞い、臆さず主張するような力強い人がいると、“自分はああいうスタンスではない”と線を引くものの、内心どこかで憧れを感じていたはずです。極端な話ですが、30歳の頃の自分が、タイムマシンで未来からやってきた現在の自分に出会ったら、憧れていたかもしれません。変な話ですが。

正社員になってからは、仕事でいろいろな壁に当たりました。失敗も挫折も経験しました。振り返ると、自分の人生において、成長のきっかけとして思い起こすエピソードは、ほぼ「苦しさ」がベースにあります。

さまざまな「苦しさ」を試練として乗り越えたからこそ、いまがある。そして何よりも、苦しいときに踏ん張れたのは、決して自分の力だけでなく、家族や友人、そして仕事でご縁のあったさまざまな方々からの支えや刺激があったから。
そして、過去の苦しさを乗り越えた後は、その記憶はいつの間に「さわやかさ」に姿を変え、自分の栄養になる。あれだけドンヨリした記憶がキラキラとしたセピア色の映像になっている。不思議なものです。

そこで、僭越ながら、30歳の自分自身に向けるような気持ちで、自叙伝的に自分の人生を、時代別にご紹介していきたいと思います。どなたかの人生を彩るスパイスにでもなれば嬉しいなと思いながら。長文になりますが、最後までお付き合いくださると幸いです。


1. 幼少期〜小学生 ひたすら野生児として生きた

生まれは神奈川県。山々に囲まれた自然豊かな地域で育ちました。兄が二人(5歳上、4歳上)の三男坊。昭和の終わりのバブル絶頂期、郊外に立ち並ぶ大手メーカーの工場が特に盛んで、街までバスで40分程度の山奥の地域ながら、自宅周辺の一部がベッドタウン化された、そんな地域柄でした。兄の時代は数キロ離れた“分校”に通わざるを得なかったにも関わらず、即座に近所に小学校が新設されたり、そのための通学路が整備されたりといった状況でした。私がその新しい小学校に入学する頃には、合計で100人を超えるほど人口が急に増えたという環境でした。同時に先生も増えました。新たに赴任してきた先生は、皆そろって『ここは本当に空気がおいしくて、みなさん伸び伸びと』と言いました。何回も言うので『ここはそんなに田舎か!』と思いました。

10分歩けば、ドラえもんの「裏山」のような山があり、山の上には古ぼけた公園(的な場所)があり、山の中腹には清水が流れる小川がある。サワガニもザリガニも、カブトムシもクワガタも、シメジもゼンマイも、なんでもその辺にいました。

近所のくぬぎの木を蹴飛ばせば、10センチを余裕で超えるミヤマクワガタがポトリと落ちる。夜中に栗の木の根元を掘れば、カブトムシの蛹がいる。滝があれば飛び込む。基本的に、遊びはクリエイトするものであり、遊び場だけを決めて向かった後は、その場で何となくルールが決まって適当に遊ぶ。走るもよし、登るもよし、いじるもよし。ただひたすら「猿」のようでした。幼なじみがすぐ近所にいたので、彼と毎日のように外に出ては謎の遊びをしていました。そして一度遊びに出ると、ほぼすんなりとは帰ってこない。昭和の時代や地域性があってのことだったと思いますが、とにかく遊びに関しては、充実していました。積極的に頭と身体を使っていたと思います。

私は三男坊なので、良くも悪くも父や兄からの影響を多く受けました。良い言い方をすれば“進んでいる”。悪い言い方をすれば“ませている”。父からは自然との触れ合い方や、自然の中で工夫して遊ぶこと。火の起こし方。焼き芋の焼き方。ノコギリの使い方。紐の使い方。兄からは、ガンダムやウルトラマンといった流行モノもそうですし、紙ヒコーキやスゴロクを自作する遊び方のほとんど。そもそも兄も野生児的な生き方でしたが、彼らは、いま思い出しても、戦略思考と実践スキルが非常に高い。昭和の時代背景で大家族が多かったので、兄から見て、同級生の中にませた人物がいて、刺激を受けたのかもしれません。その影響で私は、将棋やトランプも早々に会得して、得意にしていました(神のようなスキルの友人も時折現れましたが)。

そしてもう一つ、大きな影響としては、幼少期から色々なジャンルの本が身の回りにありました。『なぜなに算数 4年生』のようなタイトルの本を、1年生のときに眺めている。読むというよりも眺めている。図鑑や漫画も同様に、対象年齢を超えて眺めていました。『ウルトラマン大百科』のような分厚い本は特に好きで、テレビで本編を通しで見たことがないにも関わらず、バルタン星人よりもレッドキングよりも、ゼットンが恐るべき怪獣であることは知っていました。さすがにもう薄れていますが、初代ウルトラマンからウルトラマンレオまでの怪獣の名前と顔は、いまだによく知っている方だと思っています。

そうした影響もあってか、小学生時代は、活字や数字に対するアレルギーはほぼありませんでした。それに加えて実体験に基づく自然科学の知識、手先の器用さといった、基礎能力に自信あり、といった少年だったと思います。ただし、本能的に興味が向いた目の前のものに惹かれる行動が基本パターンでしたので、後で役立つかもしれないから勉強しておこう、といった計画性や算段は一切ありませんでした。さらに、両親から「勉強しなさい」と言われたことは一度もない教育方針のおかげもあり、私が積み上げた知識と経験は、非常に偏った内容だったと思います。体育は、縄跳びや短距離は得意でしたが、野球以外のバスケやサッカーは上手い部類ではありませんでした。大人になってもいまだに、一般教養的なことわざや日本昔話、童話など、普通は知っていて当然のことを知らずに焦ることがあります。実際に、私は『花咲かじいさん』や『一寸法師』の話を知りません。

といったところで、小学校時代の成績は、教科ごとにデコボコしていました。同じ教科でも、1学期は非常に良かったにも関わらず、2学期は全く振るわなかった教科や、逆に目覚めたように100点を連発するといったこともしばしばあったようです。

2. 中学生〜高校生 ミスター・ストイックの芽生え

さて、ここからは私の原型を作った中学から高校の6年間の記憶に入っていきます。

実は、中学時代の話をする前には序章があり、再び小学校の高学年時代に遡らなければなりません。小5の時、俗に言う「いじめ」のターゲットになってしまいました。1年間くらいでしたが、体感としては結構長いです。理由は全く分かりませんが、たわいもないことだろうと想像します。あれだけ人格否定されると、子供ながらに色々と考えてしまうものです。詳細は省きますが、結果だけ申せば、幼なじみ(彼が別のクラスだったのが幸運)と一緒にいられたことと、自宅でも兄を真似て一人遊びしていれば気が紛れる環境だったことが功を奏し、土俵際で踏みとどまることができました。

そしてある時、「変わりたい」と本気で思いました。ウルトラマンみたいに変身したかった。もうこんな惨めな思いはゴメンだ。これ以上自己否定はしたくない、強くなりたい、面白いヤツになりたい、と。小5の終わり頃から、筋トレとか、格闘技やお笑い番組をひたすら見るとか、腹の底にあるマグマが沸々とした感じで、物静かに熱く過ごしましたね。

小学校を卒業する頃になると、周りの眼が少しずつ変わっていった空気感を覚えています。自分自身も自信がついてきて、オーラが変わったのかもしれません。

そして卒業。地元の公立中学へ。兄の背中を追い、部活はバレーボール部に入部。そして、地元では厳しい指導で有名な学習塾に入塾。勉強への熱は、当初そこまで高くはなかったのですが、沸々としたマグマが湧き出す瞬間がやってきます。過去、自分に誓った「変わりたい」という思い。では何を持って変わったと証明するのか。自分なりに考え、自分に課したテーマが「1位になること」でした。これは中1の3学期の頃の話です。

決意した後は、ひたすら行動でした。
3年間、お世話になった学習塾の厳しさが、1位になりたい自分とうまくコラボした感覚で、この学習塾の存在も自分にとって幸運でした。この塾では、学問を極めるのに必要なテクニックや知識の外側にある「姿勢」についても重視した指導をしてくれました。中2からの行動原則(いつも心に唱えていた指針)は、以下の内容でした:

・勉強もスポーツも遊びも手を抜かない
・学校の授業は復習の場として使う
・半年先を目指す
・限界の1.5倍が本当の限界と思う
・絶対に毎日続ける
・自分はできると信じる

勉強と部活を本気で両立させることを実現するとなれば、時間がありません。当初は睡眠時間を削ることでなんとかしようと思いましたが、やはり体が持たない。そうして、日々の勉強での時間の使い方を考えなければと思い至り、工夫をし始めました。

・量ではなく質を高める
・瞬間で答えを出すトレーニングを毎日に組み込む
・暗記に頼るならば、忘れない方法を考えて、覚悟してから暗記する

改めて文字にすると、ストイックですね。いまはここまで徹底できませんが、仕事や学びのスタンスとしては、未だに変わっていないと思います。
よく、ショート動画などでスポーツ選手の格言が紹介されていますね。徹底して練習して積み重ねて続けることがやはり重要。世の一流が実践していたことを、レベルの差こそあれ自分も実践していたと実感できて、勝手に誇らしく思っています。

毎日、自分はできると信じるために、鏡に向かって「お前ならできる」と呟いていました。毎日、1.5倍の勉強をこなすために、わざと問題集と書きかけのノートを途中状態で広げておき、学習机の椅子をすぐに座れるような角度に、自分で仕込んでから出かけていました。客観的には馬鹿らしいかもしれませんが、そうやって地味に自分を奮い立たせる方法を考えていました。いまになってみれば、そうした自己暗示もかなり重要な要素だったのではないかと思います。

そして、中間テストや期末テストで学年1位になるために、1点も落としたくない自分が、自分なりに究極の暗記方法としてたどり着いたのは、「自分で問題を作る」方法でした。蛍光マーカーやペンで教科書に線を引くのも、記憶に定着すれば勉強法として最も効率的かもしれませんが、自分は線を引くだけでは覚えられません。暗記が苦手でした。特に社会の歴史は大の苦手。そのほかにも、当時『技能教科』と呼ばれた美術や音楽の筆記の期末テストでは、画家や作曲家の名前や出身地、作品名まで問われるのですが、どうしても確信を持って覚えられませんでした。

考えた末にたどり着いた「自分で問題を作る」発想。この発想に至ったきっかけは、学習塾や学校で配られていた「小テスト」を思い出したことです。英単語や漢字など、どうやってあの分量が頭に入ったのかと考えて、所定の時間内に、小刻みにアウトプットするトレーニングをしていたからだと思い至ったのです。

歴史も一つ一つ、問題を手書きすれば良い。問題を作る時間はかかりますが、薄い記憶を何度も繰り返し刷り込む勉強法で費やす時間の効率と、自分の筆跡とノートのイメージで確実に記憶する勉強法で費やす時間の効率は、それほど変わらないと思います。

最終的に、歴史の教科書を全部ノートに書いて、特に太字や重要箇所の穴埋め問題を作りました。ものすごい分量でしたが、1週間集中すればなんとかなる量でした。技能教科の暗記モノは、記憶に残すために、シューベルトや瀧廉太郎の肖像画を、下手くそながらに真似てノートの一角に描きました。やってしまえば効果絶大と信じればできてしまうし、達成感がまた誇らしいのです。そうやってひたすら自分を盛り上げていきました。

この結果、最も内申点で重要と言われた中学3年の2学期の中間テストと期末テストで、学年1位になることができました。さらに誇らしいのは、中間テストは5教科(英数国理社)各100点満点で合計500点満点のうち、自分の合計点が498点だったこと。2点のマイナスは、一つは選択肢の凡ミスによる−1点、もう一つは漢字間違い(不鮮明)で−1点ということで、ほぼパーフェクトでしたが、“試験には魔物がいました”という結果。この結果は、当時、この中学校の創立40数年の歴史の中での最高得点だったらしく、私が最高記録を塗り替えたのだそうです(当時の数学の先生が興奮して教えてくれました)。

そしてこれらを、部活もフル参加して、バレーボール部でレギュラーを張りながら、達成できたこと。カッコつけて、クールな顔をしながら、内心は躍っていました。本当に達成できたのだと。
無事に当時の惨めな自分との決別とでもいうべきリベンジを果たし、地元ではトップの有名公立高校に単願で入学しました。

高校へ進学後は、将来「やりたいこと」が明確にあった訳ではなく、持ち前の手先の器用さが活きれば良いかも、とは思っていたものの、非常にボンヤリしていました。将来的に選択肢を多く持てるように、まずは上位でのスタートラインに立つことを目的に、難関大学を目指すことが自然と目標になりました。

一方で、さすがにトップ進学校とだけあって、上には上がいると思い知らされました。挫折というよりは、現実を知ったという感覚でしょうか。同じ勉強の質でも2つの「ようりょう」(=要領と容量)が圧倒的に違う。
日本史の教科書を2回通して読んだら大体頭に入ってしまう人。成績がこれまで振るわなかったにも関わらず、勉強のコツを「そうか」と会得した瞬間に、数ヶ月で得意分野に変える人。数学の答案を見ると、自分よりも圧倒的に短い行数で答えを導き、完全に証明している人。高2の時に、そういう人には勝てないなと自覚しました。でも、自分には努力の才があると信じ、基本的な行動原則は変えずに、コツコツと勉強は続けました。

どうしても山奥の自宅から街の高校までの距離があることに加え、予備校も近くにないという時間・空間の制約から部活は諦めましたが、文化祭や球技大会といった行事は本気で取り組みました。いまでも、そうした活動を通じて縁のあった高校時代の友人の輪には加わらせていただいていて、現在は同志として、勇気をもらえる良い関係を築いています。
そうしていろいろと自分の能力と将来について悩み、一浪の末に、手先の器用さを活かして、某有名私立大学の建築学科に独学で入ることができました。そうやって自らの手で拓いた歴史はウソをつきませんし、誇らしく思えることの一つです。

天賦の才として、キレキレの頭脳を持っている自信は全くありません。しかし、戦略的に物事を考え、努力することの才能は、生まれつきなのか、幼少期の環境によって育まれたのか、いずれにせよ持ち合わせているのは事実かもしれません。

中学時代のモーレツな勢いで、「天才」と騒ぐ周辺の声もありました。勝手にライバル視され、比較されたことでムッとしたこともありました。自分は完全に、自分との戦いをしていたに過ぎず、自己を証明するために何ができるか、ただひたすら、そこに集中しながら生きてきた中高6年+浪人の1年間でした。

3. 大学生〜大学院生 若干の燃え尽きも人生のうち

さて、ここからは、社会人の最終準備段階の大学生〜大学院生時代について書いていきます。

大学では、建築をゼロから学びました。建築は、計画、法律、工学、材料、文化・芸術といった様々な学問の集合体です。
私が入学したのは1995年でバブル崩壊後、建築界においても、これまでにない斬新なデザインや工法の建築が注目され始めた時代でした。その流れはいまも絶えず続いているのだとは思いますが、私が在籍した大学ではデザイン系の力が強く、教授も学生の興味もほとんどがデザイン中心でした。

この時代はまだITはWindows95の時代でしたから、基本的にはアウトプットは手描きです。しかも100円ショップという存在が無い時代ですので、雑貨や工具や画材道具が簡単に手に入らず、建築模型を作るのにも割とコストと労力がかかりましたし、スマホもないので写真は一眼レフを借りて撮るものの、現像も安くはない。それなりに苦学生でした。

いろいろなデザイン系の課題が出され、コツコツと下宿の貧乏アパートで作成するのですが、作品の講評の場で、評価を担当する教授が「面白い」か「面白くない」かの一言で価値が決まってしまう。そんな時間が何度かありました。何となく、評価の理由が合理的で無いというか、気持ちが晴れませんでした。手先は器用なので、何度か唐突に、自分の作品や絵が評価されたこともありますが、何か引っ掛かる。アートならば正解がないのは理解できるが、建築はアートだけではないはずだ、と。その線引きが「デザイン」という言葉で曖昧なままに処理されていて、いつの間に、その教授が気に入りそうな作品を作っている自分もいて、「なんか違うんじゃないか」と思い至りました。建築を学ぶこと自体はすごく興味がありましたが、おそらくこの延長線上で、建築を仕事にしたら、自分は建築が嫌いになるかもしれない、とも思いました。

では、建築の世界に足を踏み入れた自分がこの先できることは何かと考え、「環境工学」という、建築の室内外の環境に関する学の世界を選びました。光、音、熱、空気といった、建築に住まう人々が快適に過ごせるための空間づくりに欠かせない建築環境について考える分野です。ここにも、デザインの要素はありつつも、物理がメインなので、過去の研究者が導いた法則を学び、実空間で定量的に空間を把握したり、測定したりして、より快適な居住空間を検討するという活動になります。

大学4年の時に所属した環境系の研究室で卒論を書きましたが、その先の進路が全く想像できていません。ハウスメーカーや機器メーカーは候補にありつつも、あまりワクワクしない自分もいて、先送るかのように、大学院への進学を決めたのでした。

とはいえ、大学院は学の世界の最終段階になるため、2年後はもう先送りはできない。大学の教授になりたいとは1ミリも思っていない。学費はこれまで両親がサポートしてくれていたが、もう社会に出る年齢で、全額負担をかけ続けるわけにもいかない。ということで、国立大学の大学院への転籍をチャレンジして、負担を抑えて果実を刈り取る作戦に出て、無事に入学試験に合格できました。ここに奨学金を借りて通うことになりました。

晴れ晴れとした気持ちでやってきた国立大学院の研究室。ここには処理性能世界一と言われたスーパーコンピューターがあり、いわゆる数値シミュレーションに使われていました。ある理論を組み込んだシミュレーションが正しいかを実証するために、膨大な面積を誇る実際の実験室の空間に薬品などを散布して濃度等を測定する一方で、その実空間をコンピューター上で再現して、同じように薬品を撒く想定でシミュレーション解析をしてみたら、実際の結果とどのくらい差異があるのか。といった、極めて地味ながら重要な研究をしていました。研究室のメンバーの皆さんはアジア系の留学生の方も数名いらっしゃいましたが、皆さん非常に優しく、良い方々でした。

しかし、その研究室の教授の個性もあり、ちょっと重苦しい雰囲気が漂う中で、自分も中学生時代から張り詰めて駆け上がってきた疲れと、将来の現実が見えてきた年齢でもあり、一時期燃え尽きて、何も手につかない時期がありました。あの半年から1年間は、いまからするとどん底の時期ですが、前向きに考えれば、そのまま社会人として働く前の良い休息・充電期間だったのではないかと思えます。

なんとか、大学院は無事卒業できる見込みが立ったのですが、さて、就職先はどこが希望なのかと改めて問いました。

自分が当時アピールできたこと:

勉強は頑張りました
建築を学びました
コンピューターでプログラムを組んで数値解析しました

結局、これが社会に出て何に役立つのか、随分悩みました。
そこで素直に、『建築×IT』という組み合わせを思いついて、CAD(Computer Aided Design)やCG(Computer Graphics)の世界が、最もフィットするのではという結論に至り、これらのソフトウェアを扱う大手のIT商社へと就職することに決めました。

学生時代を振り返ると、野生児だった自分が、マイナスな経験をストイックさに変換できたことで、狙い通り選択肢を持つことができた、と総括できるのですが、そもそもの発端のマイナスな経験はいじめであり、いじめは撲滅すべきものと思っています。あんな気持ちになる経験は誰にも必要ありませんし無意味です。ただ、自分にとっては、非常に辛かった反面、現在に至る原動力と考えれば、いまとなっては感謝すべき経験とも言えます。

そして、建築の世界と、ITコンサルタントやキャリアコーチングの世界とは遠くかけ離れているかといえば、実は共通点が非常に多いと実感しています。

ITには「アーキテクト」という分野があります。ITアーキテクトは、ITの知見・知識をフル活用して、ある仕組みを構築するために、システムの処理構造やデータの流れ、ネットワークやインフラなど、構成する要素を熟知して、整合性や全体効率を考えます。一方で、職種としてのITコンサルタントは、検討する対象の全体を俯瞰し、構造的に捉え、あるときは要素分解する思考が、そしてあるときは個別の要素を組み上げる思考が求められます。こう考えると、建築とITコンサルタントは非常に親和性が高い関係にある。むしろ、自分はその時々で人生の重要な選択をしてきましたが、全てがITコンサルタントに結ばれる運命(宿命)だったのかもしれません。懸命に追いかけた世界に無駄なものなどなく、必ずどこかで活きる可能性があるのだと、実感しているからです。

*冒頭のブログイメージ画像:生成AI Canvaにて作成

(「ITコンサルタントの人生録 じっくり、焦らず、積み重ねた正社員時代 編」に続きます)