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成り行きにそれらしい理由をつける

私は人の顔を覚えるのが苦手だ。

昔は似顔絵描きのアルバイトもしていたのにな。
もちろん見れば認識できる、友達の顔も会えばわかる。
だけど、じゃあねと別れた瞬間から、ぼやけて判らなくなってしまう。
眼鏡をかけていたかどうかも、一重か二重かも、どんな髪型だったかも、どんな服を着てたかも。
よっぽどその日の印象に残ってないと覚えていない。

お洒落してたかもしれないし、メイクが決まっていたかもしれない。
肌が荒れてたかもしれないし、髭が伸びてたかもしれない。
さっきまでずっと見てたはずなのになぜ分からなくなってしまうのかな。
私の脳はあまり働き者ではないのかな。

でも実際、そんなことは私にとってはたいしたことじゃないのだ。

私が誰かを好きになるときは、その存在自体を好きになる。
たいして理由なんかない。

好きなところや条件をチェックしてトータル68ポイントになりました、ハイ結果好きです!というわけではない。

本能と言ってしまえば本能かもしれないし、波長というか、電波みたいに発するものとの相性が良かっただけかもしれないし、後付けで具体的な好きな理由も挙げられるけれど、ほんとはたいした理由なんかない。

きっとやりたいことなんかも同じで、なぜやるのか理由やコンセプトはつけるけれど、やりたいことにそんなにいつも理由なんかない。
今やってることにだって、そんなにいつも理由なんかない。


生きていれば、時には大きな理由や信念をもって選択することもある。
岐路に立っても自分の意志だけではどうにもできない問題で悩むときもあるし、熟考して苦渋の決断をするときもあるし、虎視眈々と詰めていくときもある。

だけどそんな出来事は常ではなくて、日々なんてものはほぼ成り行きだ。
そこにたいした理由なんかない。


昔々、デザインの学校に行っていた頃はコンセプト漬けだった。
企画科で毎日企画書とコンセプトボードの制作に追われて。
「思いつきです。」では通らない話を明確にして伝え実行するため、概念や理由や目的や予想される結果などは必要になる。
だけどこれも数をこなして追われていくうちに、後からもっともらしいコンセプトを付けるようになって、もっともらしく賢く見えるコンセプトボードを作るようになった。

後付けの理由ばかり考えていく度に、私の中から何かが失せていく。

大きなイベントを企画して実行した時のワクワクした気持ちも、難関を突破できた勇気も高揚感も、事後の資料をそれらしく賢く飾って作ろうとする気持ちの前に萎えた。



ハンドメイドも例外ではなく、いつだってコンセプトや理由は求められる。

伝えるためには必要なことだ。
強い信念とこだわりをもって作るのはもちろん素晴らしい。
伝えるためには概念を明確にわかりやすく提示し、そこにストーリーもあったら素敵。
運営して成長していくためには、時には煙が出るほど頭を使って進めていくのも必要なんだろう。

だけど、私はなんとなく作るのが悪いこととは思わない。

なんとなくの中にこそ核心に触れる部分もあれば、なんとなくにこそ導かれる未来があることもある。
なんかわからないけどそう感じたのよ、なぜか体が動いたのよ。
そんな「なんとなく」が想像を超える未来へ繋がることもある。
成り行きってそういうものじゃないかな。
惰性とは違う、未来へ連れて行ってくれる力。
そしていつだって物語を面白く転がしていくのも『成り行き』だ。


そんなことを考えながら、今日も出店の自己紹介や経歴、作品紹介にそれっぽいことを書く。
どれも嘘ではないよ。
だけど、本当にひとことで言っていいのなら書きたい。

「ほんの成り行きです。」


#私のハンドメイドストーリー #エッセイ #理由 #コンセプト #感覚派 #成り行き



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