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三島由紀夫「豊饒の海四部作」『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』(新潮文庫)の感想

※「豊饒の海」シリーズはストーリーの楽しさが何より中心となるので、ほとんどストーリーには触れないように書いています。そのため、登場人物も何も紹介していない分かりにくい文章をご容赦ください。また、余計な知識なしに「豊饒の海」を読みたい人は、以下の文章はできれば読まないでください。

 「豊饒の海」は輪廻転生という奇跡が、およそ二〇年という時を隔てて繰り返される(らしい)四部作という構成である。そこで読まれる物語(「輪廻の奇跡」「老いることこそ生きることだった」(『天人五衰』p306)者たちの物語)も面白く読めることは保証できる。何より輪廻の意味が各巻で微妙に変じていく結構が面白いと思う。野暮な言葉にしてみると、『春の雪』では人間の意志の彼岸であった輪廻が、『奔馬』では人間の一回の生を否定する宿命として現れ、『暁の寺』ではそれを覗く者に世界のエロスを開陳するものとなり、『天人五衰』では何だかわからないというのが大体の流れである。このわからなさに加えて、これを書いた直後に三島由紀夫が壮絶な死を遂げており、わからなさに死のわからなさが重なって、大変厄介である。が、私はこの小説を「ハッピーエンドなおかつ自殺を否定している」小説と読んでしまった。これもまた読書だろう。
「僕がさっきから解こうと思っていた謎は、月光姫(ジン・ジヤン)の死の謎ではなかった。それは月光姫が病んで死ぬまでの間、いや、すでに月光姫がこの世にいなくなってからの二十日間、もちろん絶えぬ不安は感じていたけれども、何一つ真実は知らされず、僕がこのいつわりの世界に平然と住んでいられた、というその謎なのだ。」(『春の雪』p310)
 大切なものを失う瞬間に自身の限界が奇妙なものと感じられている場面である。「平然と住む」この世界は「いつわり」であり、超人的な把握こそが「真実」として自然に求められるのだ。自己の限界を超えて「真実としての世界の豊饒さ」とつながる存在だと願うこと。「豊饒の海」四部作はこのような意味で、人間の限界超えが主題として指名されている。
 「人間の限界超え」において、輪廻は実は障害なのだ。『奔馬』では結局人間は「生きて死ぬだけ」であり、転生はむしろ一つの人生を生きる個性を奪うものとなる。そこで「人間の限界超え」の戦略はチェンジしていく。「転生」があるならば、その「転生」を可能とする「大いなるもの(阿頼耶識)」を把握する認識の問題に「人間の限界超え」の重心を移していく。『暁の寺』の前半がドマニアな「輪廻転生学」で占められるのはそのためである。後半がドエロな覗き趣味に転じていくためについ呆れるが、「認識に執して、自分の認識の根源を、あの永遠で、しかも一瞬一瞬惜しげもなく世界を廃棄して更新する阿頼耶識と、同一視することを肯(がえ)んじない」(『暁の寺』p381)とあり、「大いなるもの」に対して「認識」を行うという「人間の限界超え」のテーマは持続していく。
 この「認識」の立場は、「輪廻の観察者」のものであったが、自身も死すべき存在であり、その「大いなるもの」に巻き込まれていくことは予想される。そのために外側から輪廻を見るのではなく、自身の中で生まれつつあるものとして「大いなる運動」を捉える方向に「人間の限界超え」がチェンジしていく。その試みが『天人五衰』である。観察者の「鏡」のような人物たちが現れることで、自身の生を総括する機会を持つ。読者が残念に感じるほどの堕落しきったふるまいも、対象として世界を観察する錯誤を放擲(ほうてき)するための通過儀礼(イニシエーション)として捉えられる。
 その終結において観察者は「劫初(こうしょ)から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩うことに決っていたのだ」「極度の現実感を以てそう考え」る(『天人五衰』p327)。「劫=一つの宇宙の全ての時間」の中の一点である自身を肯定しているのである。それは輪廻を含む宿命の肯定であると同時に、自身の唯一のよりどころである「現実」を充実させている。「全ての時間」が「記憶の幻(月)」として回帰する現在を生きること。ここに一つの「豊饒」があるのだ。これが「衰(老い)」によって成し得たことであるならば、『暁の寺』までの結論とは違うのである。眼裏に「太陽=世界の豊饒」を開いて夭折したものと異なり、「老い」こそが、「奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた」(『天人五衰』p342)現在に降り立たせる。これこそが「ハッピーエンドなおかつ自殺を否定している」小説だと思える理由である。つまり、「豊饒の海」は三島の実人生を超えた帰結を描いていたと読める。合掌。


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