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《大学入学共通テスト倫理》のためのカール・ヤスパース

大学入学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・学者などを一人ずつ簡単にまとめています。カール・ヤスパース(1883~1969)。キーワード:「有限性」「超越者(包括者)」「実存的交わり」「限界状況(死・苦悩・争い・責め)」主著『哲学』『理性と実存』『世界観の心理学』『真理について』

これがヤスパース

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ドイツの哲学者で、共通テスト倫理では「実存」哲学というカテゴリーをフランスのサルトルと(あと、ハイデガーと)分け合っている人物です。心理学者として出発し、社会学者マックス・ウェーバーの影響下で独自の哲学を構想しています。大学人としてハイデガーとの交流や、指導教官時代からのアーレントと心温まる交流もよく知られています。

📝カール・ヤスパースはこんな少年でした!

当時校長から認可されてきた、大学生組合を模倣した三つの生徒組合がありましたが、それらが両親の社会的身分や職業によって区別され、人格的な友愛に基づいたものでないという理由で、私がそれらのうちのどれにも加入を拒んだとき、事態はクライマックスに達しました。同級生たちでさえ、初めのうちは私に対して理解を表明しておりましたのに、あとになると実際に私の態度を非難しました。ある友人が私といっしょに週末に山にハイキングをしたとき、彼の所属する組合は彼を除名するとおどかして、私との関係を断つよう要求したのです。どうしようかという彼の問いに、私は、きみは組合にとどまる方がよいとすすめました。(『ヤスパース選集XIV 哲学的自伝』(カール・ヤスパース著、重田英雄訳、理想社)p6から引用)

高校時代に身分差別と感じた制度を拒否したために、学生組織と学校組織の両方から孤立し、そのために友人からも疎遠となったエピソードです(休日に友だちと遊ぶこともできないなんて本当に辛いですね!)。この年ごろの少年にとって最高に辛い境遇にあってもヤスパースは決して折れませんでした。つまり、このときからすでにヤスパースは正しいと感じたことにひたむきに進む人物です。体が弱かったそうですが、だからこそかえって「揺るぎないもの」への志向が強かった少年時代かもしれません!

📝こんな彼は哲学の出発に人間の「有限性」をしっかりと見据えます!

世界は全体として何であるかということ、どこへ世界が行くかということ、それを何人も知っていない。かかる無知[不知]の純粋性が、われわれが真理と名付けるもの(略)を、はじめて可能にするのである。(『ヤスパース選集XXI 真理・自由・平和』(カール・ヤスパース著、斉藤武雄訳、理想社)p29から引用)

例えばこんな感じがヤスパースの「有限性」。個がみずからの有限性を思い知るところから開始するのがヤスパースの「実存哲学」です。

📝有限である人間は、世界の中にある何かを「無限」と認識します!

包越者は、対象性をのり超えるはたらきのなかで、のり超えられないものとして開明される(『ヤスパース選集XXXI 真理について1』(カール・ヤスパース著、林田新二訳、理想社)p320から引用)

これがヤスパースの「超越者」その①。人間の有限を強調したヤスパースは、それと同時に、超越者(神的なもの)の存在を生涯哲学的に主張しつづけます。この引用は、認識することが何かを包む行為であること、包もうとして包めない何かこそが「超越的なもの」と感じるものだという意味のくだりです! 「開明(かいめい→認識や存在を発展させること)」。

📝人間の有限からみられたヤスパースの「超越者」は相当観念的です!

われわれは、ただ端的な包越者たるすべての包越者の包越者のみを、本来的な意味で超越者と名づける。(『ヤスパース選集XXXI 真理について1』(カール・ヤスパース著、林田新二訳、理想社)p223から引用)

これがヤスパースの「超越者」その②。ヤスパースにとっての超越者は、実体として認識できるものではなく、何かを認識するはたらき(包越)の臨界であり、全ての包括するものも包括するという概念上の想定としているようです。観念論のドイツの国の人だものという感じがします!

📝こんな「超越者」は私たちが呟く「せかい」と意味が似てきます!

超越者なる一者は、普通いわれるような一なるものではなくて、一切を内に含む唯一性であるということです。(『ヤスパース選集XXXVII 神の暗号』(カール・ヤスパース著、草薙正夫訳、理想社)p98から引用)

これがヤスパースの「超越者」その③。私たちは世界やその中での自他を考えるとき、きっとその意味のひろがりは銀河系などの物理上の空間よりももう少しひろいでしょう。過去と現在と未来を貫き、未知や未発見の出来事も含めていて、何らかの本質的法則が貫いているとも信じることもある、そんな「全て」。この「せかい」をつぶやき思う私たちも、ヤスパースの主張する「超越者」を想定しているといえるのでしょうか!

📝ヤスパースは自己を超越する世界の感覚とともに生きよと説きます!

「隠れた超越者に対する実存の緊張こそ実存の生であり、この生において真理は運命の問答の間に探求され、経験され、見られるのであるが、それでもなお、時間的現存在が続く限り被い隠されたままなのである。」(『形而上学〔哲学Ⅲ〕』カール・ヤスパース著、鈴木三郎訳、創文社p187から引用)

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有限の力といのちをもった私たちが、その短い生涯のなかで「一なるもの」と向き合っていくこと。それが一生が尽きても明らかにならないその「超越」を意識しつづける緊張とともに生きるのが実存だとヤスパースは説きます。それでもなお、「超越者」という真理はけっして明らかにならない。ヤスパースの「超越者」はひたむきにストイックに「世界は1つの真理である」と認識しつづけることの所産です!

📝この「超越者」が私たちに伝えるものは「暗号」でしかありません!

暗号はいわば超越者の一つのことばである。このことばは、われわれによって生み出されたことばではあるが、それにもかかわらず、かなたからわれわれのところへ迫ってくる。/現存在は実存にとって暗号と化す。(『哲学の学校』(K・ヤスパース著、松浪信三郎訳、河出書房新社)p232/『形而上学〔哲学Ⅲ〕』(カール・ヤスパース著、鈴木三郎訳、創文社)p235から引用)

これがヤスパースの「暗号」。世界がひとつの「何か」であってもその「何か」とはついにまるごと理解することはできず、私たちは目の前にある事物や存在からその秘密を読み取っていくほかない。こんな意味で世界のすべては実存を生きるものにとって超越者の暗号となるそうです!

「実存的交わり」はヤスパースに超越者と同じほど大事です!

私がかつてほんの一瞬たりとも他者と結ばれていたかぎり、究極的には、永遠の破綻は信ずるに足りない。/真理は二人から始まる(『哲学』(Ⅱ実存解明)(ヤスパース著、小倉志祥一・林田新二・渡辺二郎訳、中公クラシックス)p145/『哲学入門』(ヤスパース著、草薙正夫訳、新潮文庫)p185から引用)

こんな感じがヤスパースの「実存的交わり」(→人間が真の実存を生きるため必要とする、同じく自己を探求する他者との交わりで、「愛の闘争」と呼ばれるような愛の中に摩擦が同居するもの)。彼は積極的には論じていないんですが、交わりへのこの理解が「超越者」の主張のぶれない確信を生んでいる印象があります。1人がノーミソで思い込んだのでない、ただの所有でもない、個と個の交わり(他者と結ばれること)がもし真実存在するのだとすれば。個と個を結び、その個を超えた真理というものがこの世界にはある(つまり、超越は存在し人はそれを生きられるものだ!)という理解を感じます。私はこう「真理は二人から始まる」を解釈したいです!

📝後の奥さんとの出会いの「実存的交わり」を読みましょう!

孤独、憂欝、自意識、こういったすべては(略)一変しました。私が彼女の弟といっしょに初めて彼女の部屋に入ったとき、この瞬間は私にとって忘れることはできません。(略)彼女の挙動は装う風もなく、型にはまっているのでもなく、落ち着いた明るさのうちに、無意識にも彼女の魂の気高さを表現して余りがないように私には思われたのです。(略)談話はたちまちにして人生の大問題に及びましたが、これが少しの奇異の念を起こさせませんでした。最初の瞬間からして、わたくしどもの間には、名状しがたい、決してありうべきこととは予期されなかったような共感が鳴り響いたのでした。(『ヤスパース選集XIV 哲学的自伝』(カール・ヤスパース著、重田英雄訳、理想社)p15~p16から引用)

彼女がヤスパースの生涯の伴侶ゲルトルート・マイヤー(のちのゲルトルート・ヤスパース)。集団の圧力にも屈せず「正しさ」への情熱を持ち続けていたカール青年は、ゲルトルートとの出会いによって、愛によって個の枠組みを超えたレベルの気高い共感を生きられることを確信していたのかもしれません!

📝彼の哲学は個を有限づける「限界状況」で産声をあげます!

交わりのさいに争わねばならないという事実に、死や苦悩や外的力ずくを超えて、私を揺さぶり動かすものでありうる。(『哲学的世界定位〔哲学Ⅰ〕』(カール・ヤスパース著、武藤光朗訳、創文社)p433から引用)

これが例えばヤスパースの「限界状況(死、苦悩、争い、責め)」。「有限」の人間の象徴そのものの死、自由にならない他者と摩擦し(争い)、他者に追わされる難題(責め)、それら全てに葛藤し生きる内面の苦悩と物理的な苦痛(苦悩)。これら全てが哲学をするための正しい前提で、ヤスパースは論じます。人が交わる中に「実存(本当の生のあり方)」を見たヤスパースは、死を含めた他に対するどうしようもない課題を「実存的交わり」の中で引き受けて、超越なるものへと自らを開いていくことがヤスパース的実存です!

📝最後は、「1人共通テスト倫理」なヤスパースの側面の紹介を!

プラトンは最初の愛の哲学者である。(略)プラトンの思考は、ソクラテスに対する愛にその根源を持っている。(『ヤスパース選集XVII ソクラテスとプラトン』(カール・ヤスパース著、山内友三郎訳、理想社)p170から引用)
アウグスチヌスは、人間の生活すべてのものに愛の働きを見いだしている。(略)愛は、人間がもっていないものに対する努力である。(『ヤスパース選集XII イエスとアウグスチヌス』(カール・ヤスパース著、村田新二訳、理想社)p172から引用)
竜樹は思惟しえぬものを思惟し、言表しえぬものをいいあらわそうとする。(『ヤスパース選集V 仏陀と龍樹』(カール・ヤスパース著、峰島旭雄訳、理想社)p78から引用)
老子は存在の根拠を道と名づけることによってーーこの根拠自体は無名で名づけようがないがーーこの言葉に一つの新しい意味を与えた。(『ヤスパース選集XXII 孔子と老子』(カール・ヤスパース著、田中元訳、理想社)p25から引用)
ひとは問うであろう。一体リオナルド(・ダ・ヴィンチ)は、本質的に、芸術家なのか、科学者なのか、又は哲学者なのか、それとも精神的創造の一般的な分科の下には包摂することの出来ない何ものかであったのかと。(『ヤスパース選集VI リオナルド・ダ・ヴィンチ―哲学者としてのリオナルド』(カール・ヤスパース著、藤田赤二訳、理想社)p15から引用)
キルケゴールとニーチェは、個別者であり例外者であって、みずからをそのようなものとして自覚している(『ヤスパース選集XII イエスとアウグスチヌス』(カール・ヤスパース著、村田新二訳、理想社)p198から引用)

驚くほどにヤスパースの論述は1人で倫理の範囲を兼ねています。おそらく、これは偶然の符合でなく、きっと教科書「倫理」を作成するさいにヤスパースの博識なパースペクティヴがいくらか採用されているということでしょう(私は「運命愛」を強調するニーチェの解釈に特にそれを感じます、他に倫理が参照した「思想」としては青年心理学と和辻倫理学が思い浮かびます)。また、このヤスパースの歴史観が最後の重要事項です。『枢軸時代』がそれで、キリスト、仏陀、孔子、ソクラテスなどの時代(前800~前200年頃)を人類の精神文化の偉大な「軸」となみなす考えを呼びます!


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