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『山椒大夫・高瀬舟』(森鷗外著、新潮文庫)の感想

 収録作は、「杯」(自然と人間の神話的小話)、「普請中」(別れた外国人恋人と日本で会うだけの話)、「カズイスチカ」(「臨床記録」という題のいい医者とはどうあるかという話)、「妄想」(森鷗外がモデルとおぼしき華麗すぎる思想の遍歴)、「百物語」(気乗りせず百物語に参加してみましたという現代文学)、「興津弥五右衛門の遺書」(主君のために生き、義のための死を願う男の遺書)、「護持院原の敵討」(敵討制度になげうつように人生を費やす人々の話)、「山椒大夫」(母子供たち誘拐され奴隷にされてしまう話)、「二人の友」(ドイツ語を解した二人の人物との交友録)、「最後の一句」(父の処刑を執行する政府に娘が言った一言とは?)、「高瀬舟」(弟に安楽死を施して島流しにされる兄の語り)の全十一編。
 「若い時には、この死という目的地に達するまでに、自分の眼前に横たわっている謎(なぞ)を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなった。次第に薄らいだ。解けずに横たわっている謎が見えないのではない。見えている謎を解くべきものだと思わないのである」(「妄想」p68)のように、自己を的確に分析しながら、生の「謎」さえも見つめている感じは、偉い坊さんと偉い学者の先生を合わせたような鷗外的達観(「諦念(resignation)」)である。
 そして、森鷗外が人の生き方の中にこのような「見えている謎」を見たとき、抜群のバランスと冴えをもった物語が生まれる。たとえばそれが「山椒大夫」だと思う。父を探して女子供の四人で旅に出た一行に、たやすく魔の手が襲いかかる。人買いに誘拐され、母は自殺さえも許されず、姉弟は領主に売られ、奴隷として働かされる。暴力も人の優しさも、どちらも「見えているもの」として公平に取り扱うことで、緊張感のある描写が生まれている作品である。
 彼らは愛のために命を捧げていながら、誰もそれを「解くべきものだと思わない」。このひたむきさこそが読み応えとなるだろう。以下の「眼前」の出来事も、様々な感情の起伏を物語るが、人物はただそれを生きるのみである。以下の母との邂逅の場面がそれだ。
「正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた。そのうち臓腑が煮え返るようになって、獣めいた叫が口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。忽ち正道は縛られた縄が解けたように垣の内へ駆け込んだ。」(p204)

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