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《大学入学共通テスト倫理》のためのエーリッヒ・フロム

大学入学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・学者などを一人ずつ簡単にまとめています。エーリッヒ・フロム(1900~1980)。キーワード:「消極的自由(~からの自由)」&「積極的自由(~への自由)」「非生産的性格」&「生産的性格」主著『自由からの逃走』『破壊』『正気の社会』『愛するということ』

エーリッヒ・フロムとは

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フロイトを継承しながら、より社会性や対人関係を重んじて心理を解明しようとした「新フロイト派」代表的人物です(他はサリヴァンなど)。センター倫理ではさほど強調されませんが、初期のフランクフルト学派にも属していて、彼らとともにドイツからアメリカに脱出したユダヤ系の心理学者&精神分析学者です。彼の論考はいまでもファシズム分析の定番でしょう。

📝『自由からの逃走』という魅力的な題の本を☑しましょう!

自由をえたいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか。(『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)p13から引用)

自由を求めると同時に服従したいという、フクザツな葛藤を私たちの欲求に読み込んでいます。

📝フクザツな欲求が生まれる背景に現代性があるといいます!

資本主義はたんに人間を伝統的な束縛から解放したばかりでなく、積極的な自由を大いに増加させ、能動的批判的な、責任をもった自我を成長させるのに貢献した。(略)それと同時に個人をますます孤独な孤立したものにし、かれに無意味と無力の感情をあたえたのである。(『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)p124から引用)

ルネサンスや宗教改革を通過しながら伝統から解放された個人は、同時によりどころを失っていて、その「孤立」が自由への二重の態度を生むそうです。

📝そういうわけでこの現代人の前に2択のルートが現れます!

「~への自由」ルートがこちら

一つの道によって、かれは「積極的自由」へと進むことができる。(略)能力の純粋な表現において、自発的にかれ自身を世界と結びつけることができる。(『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)p158から引用)

これがフロムの「積極的自由(~への自由)」。ポジティヴに愛や自発的な行為でつながる、他者や世界「への自由」です。こっちが正解のルートです。

「~からの自由」ルートがこちら

逃避はかれの失われた安定を回復することはなく、ただ分裂した存在として自我を忘れさせるだけである。(『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)p158から引用)

これがフロムの「消極的自由(~からの自由)」。束縛や強制(あるいは苦痛)「からの自由」で、本能的にストレスから自由になろうとするもの。現代人は自由のもたらす孤立にストレスを感じ、そこから逃れようと逆に自由を手放すことがあると言います。なるほど。

「このようにして、自由――……からの自由――は新しい束縛へと導く」(『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)p283から引用)

こうしてフロムは、自由を得たはずの現代人がそれを放棄する現象を記述しています。この記述を通じて、彼は現代に「ファシズム(全体主義)」がなぜ出現したかを解き明かそうとしています。これがフロムの『自由からの逃走』です!

📝さらにフロムはファシズムのなかの悪をより迫っていきます!

彼らはあまりに疎外された、あるいはナルシシズム的な人間であるがゆえに、他人の内部で起こっていることに対しては絶縁されていたということである。(『破壊 人間性の解剖 合本』(エーリッヒ・フロム著、作田啓一・佐野哲郎訳、紀伊國屋書店)p82から引用)

フロムによると、人間は本来悪に対する反発はあるものだが、その本来が圧迫される状況下では、一部の人間はサディズムをあらわし、一部の人間は上のような精神状況に陥るそうです。つまり、フロムにとって人間の「悪」は本能ではなく、症候的(症状のような)なものということです。フロムの「悪」研究は「人間は本来悪だ」というニヒリズムと真正面から戦っているもので、そこには単に人間を美しく描こうとする以上の、本気で向きあう意志が感じられるでしょう。

📝「悪」が症候ならば、反対の「正気」は人間的愛から生まれます!

愛情を経験することに人間らしくあることの唯一の答えがあり、ここに正気がある。(『正気の社会』(エーリッヒ・フロム著、加藤正明・佐藤隆夫訳、社会思想社)p150から引用)

これがフロムの「正気」。二者にとじることがない、自然と世界に開かれていくような愛の可能性をフロムは重んじています。きっと、こんな素敵な愛の実感をもっていた人なのでしょう。

📝ついでに「愛の伝道師」(?)のフロムも押さえておきましょう!

もし愛が、その愛する人のうちにあるもろもろの可能性を肯定し、そしてその人の独自性を配慮し尊敬することと定義されうるならば、人道主義的良心とはまさしく、われわれ自身に対するわれわれの愛に満ちた配慮の声であるということができる。(『人間における自由』(エーリッヒ・フロム著、谷口隆之助・早坂泰次郎訳)p193から引用、ただし「われわれ自身に~配慮の声」までの傍点を略した)

これがフロムの「愛」。他人を愛すると同時に自分を愛する、そして世界に広がるようなパワーを感じる愛を彼は繰り返し説いています。

📝ポジティヴさの通った民主主義にフロムは希望を託します!

デモクラシーは、人間精神のなしうる、一つの最後の信念、生命と真理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由にたいする信念を、ひとびとにしみこませることができるときにのみ、ニヒリズムの力に打ち勝つことができる(『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)p302から引用)

ファシズムに抵抗し、民主主義を人間的愛によって賦活しようとしています。

📝そして、フロムは社会の理想を『「ある」社会』に見ました!

もし私が私の持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう。//持っているものを失う危険から生じる心配と不安は、ある様式には存在しない。//あることの社会の確立に成功するかどうかは、ほかの多くの方策にも掛かっている。(『生きるということ』(エーリッヒ・フロム著、佐野哲郎訳、紀伊國屋書店)p153//p154///p248から引用、ただし「もし~だろう」「ある」の傍点を略した)

これがフロムの「『持つ』社会」&「『ある』社会」。所有からなる資本主義の「持つ」社会の流れを変えて、個人の存在を肯定する「ある」社会を理想として描いています。

📝フロムは二分法の達人ですが、その現実態にも自覚的です!

非生産的構えと生産的構えの相違を述べるに際し、私はそれらが夫々別の存在であって、はっきりと区別することができるかのような取り扱いをしてきた。(略)しかし実際には、何時でも混合形態を扱わねばならないのである。(『人間における自由』(エーリッヒ・フロム著、谷口隆之助・早坂泰次郎訳、東京創元社)p136から引用)

これがフロムの現代人の性格類型としての「非生産的性格」&「生産的性格」。自分の内面のむなしさのために他人を支配したりものをうばおうとする「非生産的性格」。自分の主体的な活動によって、逆に他人を生かし関係を創造する「生産的性格」。ここまで見たようにフロムは歯切れのいい二分法を駆使して現代社会を解読していきますが、それが現実にブレンドしている事実には自覚的であり、具体的な思考をしていたといえるでしょう! 「夫々(それぞれ)」

📝人間元来の温かさを「バイオフィリア」と名づけました!

バイオフィリアは、生命とすべての生きているものに対する情熱的な愛である。それは人間であれ、植物であれ、思想であれ、あるいは社会集団であれ、その成長を促進しようとする願望である。(『破壊 人間性の解剖 合本』(エーリッヒ・フロム著、作田啓一・佐野哲郎訳、紀伊國屋書店)p587から引用)

これがフロムの「バイオフィリア(生命愛)」。他の成長をわがよろこびとする感情が人間には元来備わっているとしています。こんなハートウォーミングな人間観と世界観とをもって、ナチズムの現実にまっすぐに向き合ったヒューマニズムの思想家それがエーリッヒ・フロムです!

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フロムがその生長も喜びとする植物のカットで〆させてください!

あとは小ネタを!

新フロイト派の社会心理学者エーリッヒ・フロムは、その著書『愛するということ』で「自分の存在の中心において自分自身を経験する」ことに愛の基盤をみた。そうして、愛を自他を強く肯定するチャレンジとして捉えている。鈴木晶訳、紀伊國屋書店p154の引用です。


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