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【エッセイ】多様なことを楽しめるか。
学校に出入りしていると,やたらと「多様性」という言葉が目につくようになった。
SDGsのポスターもあちこちに貼られている。
ふと「多様性ってなんだろう?」と気になった。
多様性は文字通り「多様であること」である。
英語で言えばdiversity。
「ダイバーシティ」とカタカナ表記でもしばしば使われる。
多様性の時代
現代は多様性の時代といわれている。
多様性に関する整理が進むにつれて,様々な構成要素があることが分かっている。調べてみればすぐに,以下のような項目があることがわかった。
【表層的ダイバーシティ】
性別
人種
国籍
年齢
SOGI(性的指向・性自認)
※Sexual Orientation and Gender Identityの略。ソジ。
障害の有無
【深層的ダイバーシティ】
価値観
宗教
経験
嗜好
第一言語
受けてきた教育
コミュニケーションの取り方
これらが多様であることを認めて,受け入れる社会を作ろうという時代である。
たしかにもう,異なる人種が身近にいるからといって驚いている時代ではない。
性的志向も,「カミングアウト」という形でどんどん聞かれるようになったし,同性結婚を認める市町村も増えてきている。
まだまだ発展途上とはいえ,障碍を持つ人には優しい社会づくりも進んできた。
内面的(深層的)なことでいえば,若い人たちを中心に,相手をそのまま受け入れられる方々が多い印象もある。(飲み屋のおじさんたちは全然受け入れないが)
このようにして社会の寛容さは広がっていき,またこの流れを推し進めようということだ。
多様ではなかったのか
上記のような理念は誠に素晴らしいと思うし,そうあるべきだと思う。
一方で,多様でないことなどあったのだろうかとも思う。
もちろん,元々社会は多様であり,それを「受け入れるか否か」「どう受け入れるのか」「線引きは」というところがポイントなのだろう。
内面的な問題でもあり,論理的な問題でもある。
例えば,学校には多くの生徒がいる。
当然生徒は一人ひとり違う人間であり,制服は似通っているが,同じ顔をしている人はいない。
それだけで多様だということがわかる。
一方で内面的にも,互いに似たところはあるにせよ,関われば関わるほど違う人間だということが分かっている。
それらが一つのある空間のなかで,数年という年月をともに過ごしている。
時にはぶつかり合いながらも,互いに成長する場所として設定されている。
実に多様性に満ちている。
学校で過ごす彼らは多様性を認めているのだろうか。
おそらく普段はそんなことは考えていないだろう。
元々が多様であり,何の因果か一つの空間で一緒になっているのだから,互いになんとかやりくりするしかない。
仲よくしたり,協力して何かを実現したり,ときに喧嘩したりしながら,なんとか収まっている。
それは自然なことであり,わざわざ「多様性」という概念を持ち出すまでもない。
多様性という概念が必要になってくるのがいじめだろう。
多様性を認めないという方向性であり,子どもだけでは解決もなかなか難しい。
ここでは,論理的な手法を持ち出す必要があると思う。そのために,関わる大人が表層的・深層的に多様性を理解していなければならない。
社会そのものが多様であり,それが自然なのだから,普段は意識に上がってこない(その必要もない)。
しかし,学校を一例にとって,そういった基礎が社会にはあるのだと思い起こす必要がある場面について述べた。
違いを楽しむ
普段は多様性ということを特に意識しないということは,人が「違いを楽しむ」生き物だということを教えてくれる。
ここでいう「楽しむ」というのは,ポジティブなものもネガティブなものも含めた,総合的な感想としての「楽しい」ということだ。
ホラー映画や絶叫マシンに乗って恐怖を感じても,人は「楽しかった」と言う。
「楽しい」とはある体験・経験に対する総合的な感想だと思っている。
英語にはmake a difference「重要である」という表現がある。
これなどは,違いがあるからこそ,それが「重要だ」と認識されていることを表している。
逆に違いのないものは「つまらない」と感じられ,やがて意識に上がってこなくなる。
スマホの写真を定期的にチェックして,同じような写真を消去したりといったことは日常生活で頻繁に行われているだろう。
人はそうやってポジティブなこともネガティブなことも含めて「違い」を「楽しむ」ようにできていると解釈することもできる。
それが当たり前なのである。
そしてそれを他の誰かと共有したり協力したりしながら,社会は作られていく。
時に「好き」で表層的・深層的につながったり,時に「嫌い」で表層的・深層的につながったりもする。
また,必ずしも表層的・深層的の両面でつながるわけではない。
好きで表層的につながらず、深層的につながることについて,以前どこで見たか忘れてしまったが,好きな言葉がある。
「俺はお前のこと嫌いだけど、俺な大好きなものを好きなお前の気持ちはよくわかるよ」
人がこういう側面を持っているのはとてもおもしろいことだと思う。
嫌いのパターンもあって,「共通の敵」を作ると,嫌い同士がつながり合うのもこのためである。
「違い」を見つけては,実にいろんな形で「楽しんで」いる。
そして「多様性を認める」といった場合,必ずしも仲良くしましょうということではなく,上記のような例もまた,社会の構成要素であると認めることだ。
多様性と親切心
最近,横断歩道を徒歩で渡ろうとしていたら,車が止まってくれたことがあった。
小さなことだが,そのまま進みたい車と,渡りたい私の思いが交差した。
法的(論理的)には,車が止まることになっている。
だから私が横断歩道を優先的に渡れるのは当然と言えば当然である。
当然なのだが,実際にはそのまま止まらず進む車も多い。
あってないような論理的世界の中で,その車は止まってくれた。
見回してもパトカーや警察がいたわけでもなかった。
思わずその親切心(遵法精神だったかもしれないが)に頭が下がり,足早に横断歩道を渡った。
一見多様性とは関係ないように思えるかもしれないが,この場面では現に思いが2種類存在している。
性別や国籍といったいわゆるハード面ではなく,場面場面で変化して,現れては消えるソフトな多様性と言えるかもしれない。
そのように解釈すれば,表層的・論理面から定められた多様性への解決とともに,深層的につながったような気がした。
何気ない日常の一場面で,取るに足らないことかもしれないが,当たり前すぎて見過ごしてしまうことの中に,多様性への理解がある気もしている。
非常にめんどくさい。
全部論理が解決してくれれば,ゼロイチで判断して問題など起きないのに。
という思いも一方ではあるものの,表層面だけで解決できないから,ここまで問題が大きくなってきたとも思える。
一つ一つの小さなことの積み重ねが,やがて,異なる人種や身体・精神を持つ人たち,また性別や年齢への寛容さにつながっていくのではないか。
思い返せば,国際大会で日本人がその場をきれいにして帰るということが,世界では驚かれた。
多かれ少なかれ,日本で教育を受けていると,別段驚くことでもないようなことのように思えるかもしれない。
しかし,そういった「自分にとっての小さな行動」がしっかりと他者の意識に働きかけている。
こういう側面もまた社会であり,「それって全部じゃん」ということで,もはや何も言っていないに等しくなってきた。
さらに何も言わなさを加えるならば,多様性とはそういうことなら,「待つ」こともまた重要だ。
「多様性だ!多様性の時代だ!多様性を認めろ!多様性を排除するのは悪!」といちいち反応するのではなく,こうした概念を置いておけば,そのうちそういった方向に向かっていくとも思える。
小さなことの積み重ねでは,概して成果が見えにくく,変化のプロセスの真っただ中にいる間は不安になる。
だから,こういう概念に手を加えたくなる気持ちも十分に理解できる。
一方でそれが孟子の「助長」のようになってしまっては元も子もない。
慌てず騒がずできる忍耐力も試されているのかもしれない。
「違いがたくさんある」ということで,「楽しもう」と思う。
(写真は両生類が苦手な人を無視してカエル。多様性の片隅にもおけない。)
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