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【エッセイ(後編)】充実はどこに...空いたら埋めて、また空いて。

前回記事はこちら。

そのまま前回の続き。

「好き」を見つける別の方法として,「こうなったら嫌だな」と思う自分と,「こうなったら良いな」という自分を思い浮かべて,ギャップを作り出すやり方もある。こちらの方が簡単かもしれない。

また,このギャップには,「日々のギャップ」と「人生のギャップ」に分かれる。
「日々のギャップ」は,その日そのタイミングで感じる不足で,それが満たされたら満足できるもの。
「人生のギャップ」は,「日々のギャップ」を満たしても完全には充足されないもの。「なんか生活にハリがない」と感じるときは,こちらの問題だと思う。

「人生のギャップ」がまだ見つからない人は,とりあえず「日々のギャップ」を考えてその差を埋めるように行動していけば,自然と多くの体験をするようになるし,そのうち自分の嗜好もわかってくるだろう。
そのうちに「これだ!」というものに出会えるかもしれない。大学生などは時間のある時に,本当にいろんな体験をした方が良い。

「人生のギャップ」は,言ってみれば「人生単位で成し遂げたい大きな目標」のようなものだと思ってほしい。

これがあると,「日々の充実感は感じられるけど,何か言い知れない虚しさを感じる」というところから抜けられる。日々やることが自然とそれにつながるようになってくる。結果的に,意識が能動的になっている。

以前の私は,「日々のギャップ」はなんとか作り出していたものの,「人生のギャップ」はなかった。だから人生単位でみれば,完全に受け身の状態で過ごしていた。その証拠に不満や不安も多かった。要するに子供だったのだ。


振り返れば,その受け身から変わる必要があり,一旦空虚感を感じていたのも,意識変容が必要であり,そのための期間だったと思えてくる。

電車を乗り換えるには,一旦今乗っている電車を降りなければならない。
そのようにして,それまでのものを手放す必要があったのだと思う。


スピリチュアルでも,思考を一旦止めなさいということはよく言われる。
これは,変容のために必要なことなのだと思う。
それが「右脳に聞く」であるとか,「魂の声を聴く」であるとか表現は違えど,それまでの自分を一旦「その時は」捨てなさいということだろう。

思考を止めれば,「右脳」や「魂」の声が聞こえてくる。わかりやすく言えば,「何か知らないけどこれをやると良い気がする」に意識が向くようになる。

これは「他人の話を聞く」ということを考えてみればわかる。
他人の話を聞いているようで実は聞いていないことは多い。
「昨日のドラマ見た?」と話を振って,一見話を聞きそうに思えるが,相手が「見た!(見てない!)」と返事をした瞬間に,どこが良かったかを自分が話し始めてしまうタイプだ。
話を聞いているようで聞いていない。案外,他人の話を聞くのは難しい。

これと同じことが自分の脳内の会話にも言えるということだ。

こう考えると,私の場合は数年かかったが,たしかに「一旦思考の流れをストップする」という過程は必要だと今は思える。

その過程で「自然と立ち現れてきた」ギャップを埋めるように日々行動しようと決めると,「自然と」計画を立てるようになる。
行動は具体化され,一つ一つクリアしていくことが充実感につながっていく。
以前の自分は,「なんとなくすごいもの」に憧れ,ノウハウ本を通じて半ば強引に計画を立てていた。これが続くならすごいが,そううまくはいかない。

このような流れで自然と動けるようになったら,今度はしっかり休むことの大切さにも意識がいくようになる。休むことで,一旦またそれまでの自分を捨てる。すると次の不足に「気づく」。(気づかないなら気づくまでぼーっとしていれば良い。)

「休む」というのは,また本来の自分に戻る行為ではないかと思える。こう考えると,「他人の話をちゃんと聞く」ではないが,「夢をちゃんと見る」という解釈もできるようになる。この辺りは証明のしようがないが。


こうやって螺旋階段を上るように,一歩一歩進んでいくと,充実感のある人生になるのかもしれない。充足を求めて前に進み続けて,振り返ればちゃんと歩いた道のりが見えている。


昔から「成長成長と言わなくても,人は勝手に成長するようにできている」とどこかで思っていたのだが(「圧倒的成長!」を目指している人には申し訳ない),これで理解できた。
ちゃんと飽きるし,ちゃんと収穫逓減の法則は働く。ちゃんと空虚になるし,ちゃんと不安や不満も感じる。ちゃんと失敗して落ち込むし,ちゃんと周りの人も耳の痛いことを言ってくれる。

いつもその時その時に感じることに注意して,それに素直に従っていけば良いのだということが,今の時点では思うことである。

だから,その経験や現象「自体に」「一般に」意味があるのではなく,
その経験や現象は,「その時点で」「その人にとっては」完全に意味があるのだろうと思う。
そのように考えれば,自分の失敗や悩みは充足感のためのギャップとなるし,他人の失敗や悩みなど笑う気にもなれない。
逆に人の成功は本当に素晴らしいことだと思える。


自分の人生は一瞬一瞬に意味があり,「今ここに集中する」ということもわかってくる。
他人の芝はいつでも青いが,自分の芝も青いということに気付ける。

そうすると充実感が自然と湧き上がってくるのだろうと思っている。

空いたら埋めて,また空いて。いつでも空くのが先で、埋めるのが後。
呼吸も同じだと考えると,自然な流れである。

そしておそらく何が好きかは,本当は誰でも自分ではわかっているようにも思う。

とはいえこの先,圧倒的ちゃぶ台返しをする可能性もなくはない。

(写真:山の上から。光が相対を認識させ,その差を埋めるよう動きが始まる。)


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