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【エッセイ】雲のような存在。

日々メモを取る中で,浮かんだので書いておく。
どこかの誰かのフレーズの組み合わせのようだが,思い出せない。

求めれば求めるほど,それは幻であったかのように消えてしまう。雲をつかむように,手に入ったと思ったら消えてしまう。本当につかむべきだったものは何か。本当につかむべきだったのか。
距離を取って見ていれば,それは確かにそこにある。ずっと存在を認識していたいのならば,近づきすぎにそれをただ見ていることだ。決してつかもうとしてはならない。ずっと存在を認識していたいのなら。
自分のことが一番わからないように,自分のものにしてしまえば,その存在は認識できなくなる。消えてほしくないのなら,ずっと見守っていることだ。
しかし,それでも雲は流れていく。ずっと見守っていたいのなら,それに応じて自らも流れていけ。

家族であるとか,夫婦になる,恋人同士になる,親友になる,あるいは義兄弟の盃を交わすなど,近い存在になっていけばいくほど,相手を「自分」と錯覚してしまう。

相手を自分と思ってしまえば,とたんに相手の行動が理解しにくくなる。

「あれ,自分の意図とは違う動きをするぞ?」と感じられてしまう。
そこで,「裏切り」や「期待外れ」という言葉が生まれる。
自分と同一でないからこそ「他者」として存在しているのに,錯覚から自他を混同し,境界を見失ってしまう。

完全に同一ならば,その人はもう,自分の前に存在することはないだろう。人は同じものを消す(delete)からだ。

裏切りや期待外れから生まれる悲しみや怒り,失望などは,自他の混同から生まれるような気がしている。


もっとスケールを広げて,天気を例にとっても良い。楽しみにしていたピクニックの日は,天気予報は大外れで豪雨となってしまった。
楽しみにしていただけに,とても残念に思う。

「なんで雨が降るんだ!」と,天気に腹を立てても仕方がないことを心のどこかで理解しつつも,やり切れない思いが先行する。

これもある種,天気という他者(=自分とは異なるもの)を自己と同一視して,「自分ならば晴天にするのに。だってこんなに楽しみにしているのだから。」という混同が起こっているとも考えることができる。天気は自分ではないのに。

これを応用して,「身体が思うように動かない」というのも,身体は自分ではないということを教えてくれる。
「自分の身体は自分のもの」と信じて疑わなければ,当然裏切りを感じ,悲しみや怒り,やるせなさに暮れることだろう。
考えてみれば,生まれた時から心臓は自動的に動いていたのに。


自分の身体が自分でないとすれば,自分とは一体何なのか。

ある人は「意識だ」というかもしれないし,ある人は「心だ」というかもしれない。

では「意識」や「心」とは何なのか?

実体がなく,いまいちはっきりしない。
はっきりしないのは,それらを単体で考えているからだ。

精神と肉体=精神と物質が相互に作用しているという立場に立てば,「思いが現象を生む」として,今見ている世界や宇宙そのものが意識や心そのものだと考えることができる。

すべては関係性から成り立っている。
(だから,「身体と意識と心が自分」や「すべてが自分」ということも成り立ってくる。)


初めに書いた言葉に戻る。

好きな人がいたとする。ずっと一緒にいたいと思う(「心の中で」ではなく「物理的に」)。
「ずっと一緒にいる」ためには,その存在を「他者」として認識することが前提である。

時が経つと,やがて一緒にいることが当たり前に,自然に感じられてくることが多い。
「当たり前」のことを人はわざわざ認識しない。
当たり前だと思っていたことが,当たり前でないと気づくのは,いつでも距離ができた時である。だから「離れてみて初めてわかる」と言う。

離れることによってその大切さに気づけることは,人生においてとても意味のある事だと思う。
その気づきを得るプロセスの中で生じるネガティブな感情や,その現象化としての病気やケガも,このように考えれば尊くも思えてくる(もちろん,健康なのが一番なのは言うまでもない)。


好きな人の例で,「ずっと一緒にい」たかったのはなぜだろうか。

それは,愛を感じられるからだろう。
「その人がいるから」愛情を注げて,自己を認識できる。
「その人がいるから」愛情をもらえて,自己を肯定=存在を認識できる。

そのやり取りの中で,いつしかその人と一体化したと錯覚し,その愛が感じられなくなってしまう。

自分では気づかないが,近づきすぎているのかもしれない。
この時はもう,「重ねている」と言った方が正確だろう。

だから,「ずっと一緒にいたい」のなら,時間的にも空間的にも定期的に距離を取るのが良いかもしれない。

過去を思い出して初心に戻り,改めてどうありたかったのか未来に想いを馳せるのが良いと思う。

家族が特に難しいのは,これがなかなかしにくいからだろう。そもそも初めから「当たり前」が多すぎる。これは職業柄,感じることである。


お互いに雲のようにゆらゆらと,つかず離れず流れ続けていると,いつの間にか自分が望んだとおりになっているような気がする。

初めは「他者」として認識していたところから始まった望みが,自他混同の錯覚によって「なれたらいいな」が「なるべき」に変わってしまう。

「他人は変えられないが,自分は変われる」ということを考えても,この願望の変化は,他者を自己を同一視していることからきているのだろう。


だから,恋愛に限らず,何かを求めたら,あとはゆらゆらと流れに身を任せていけば良いのだと思う。

手を突っ込んだら消えてしまうのだから,そっとしながら,そのタイミングでできる自分のことを,初めに求めた景色を頭に描きながらやっていったら良いと思えた。

それが,人にしろ,物にしろ,天気にしろ,「他者を尊重する」ということではないかと思うようになった。


(写真:埼玉の川越で撮れた雲。特別なものではない。いつも見ている雲の中で,たまたま流れてきたから撮れたもの。しかし選んだら、特別でなかったものが特別になった。)

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