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意味のない文章についての話

この前セブンイレブンでレジ待ちの列に並んでたら、ワイの前にいた紫色のクロックスを履いたおばあちゃんがサトウのご飯を落としたので拾おうとしていた、そしてワイにおけつを向けながらしゃがんだ。
履いていたズボンが打つ寸前の弓くらい張っていたので大丈夫かと思ったその瞬間「パン!」と音が鳴って破れたのだが、ワイの前に現れたのは下着ではなく大きな桃だった。
紳士ワイ、持っていた2リットルのいろはすで隠そうとするも、水を通すことでより桃は拡大されてしまいさすがに笑ってしまいました。

この記事では、「私が生きる意味とは」という疑問について考えても無駄であるということを説明し、そういった悩みの解決方法を短く書いてみようと思います。

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「ニューヨークで午後12時の時、日本では何時か」

これは文章として成立している。調べればわかる問題である。
ではこれはどうだろう。

「ニューヨークで午後12時の時、太陽では何時か」

これは内的矛盾を犯している、時計の時間は、地上の一定位置を太陽が照らす角度で決まるので、太陽の時間を問うことは自己矛盾である。

つまり言語学的にこの問いに意味はないのである。

同様に「私の生きる意味は」「人生の目的とは」という問いは、
ワイらが宇宙を全体として経験できず、宇宙全体の根底にあるより大きな目的などというものを知ることができないと考えれば、問いかけ自体が意味をなさないのである。

つまりは「何のために生きているのだろう」は無意味な問いであり、
「生きるために生きているのである」

だから、「幸福の追求」「種の存続」「未知との遭遇と適応」「自身について知る」という"おそらくこうだろうという理由"が推測されるわけである。

だから例えば将来の夢がないことで生きる意味を感じられなくても、自分にとっての幸せが何かを「自分の幸せの基準」で見つけていけばよいのである。
現代では生活に困ることが少ないため、夢を持つこと自体が難しい。
したがって夢を持つより、仕事とどう向き合うかを勉強し考えたほうがよっぽど得策である。

また、幸せを追求するうえでSNSの使い方を誤ると絶対に幸せにはなれない。特に、「いいねの数」で自分の存在価値を見出そうとしては絶対に幸せにはなれない。
なぜなら、自分が尊敬している人からのいいねも自分にとってどうでもいい人からのいいねも等しく同じ「1いいね」だからである。
そんないいねの数が多いことは果たして何になるのだろうか?
そう、他人との比較の材料にしかならいのである。
「どうでもいい人から1万いいね」もらうのと、「自分が世界で一番尊敬している人からたったの1いいね」ではどっちがうれしいだろうか?
自分の人生にとってどうでもいい人からのいいねの数に幸福を感じてはいけない。
常に大切な人からのいいねのみを求めるべきなのである。

しかし、行動経済学や心理学を熟知した人間が巧妙に作り上げたSNSをなんの学びを得ていない人間が使いこなせるわけはないので、なるほどと思う人だけ聞いてくれればよいです。

話は脱線しましたが、そういった意味のない問いについて考えるときはぜひともこの太陽の話を参考にしていただきたい。
もっとわかりやすい例を挙げられるひとはいるでしょうが、ワイの今の実力ではこれが限界です。

以上、文章力のないワイによる意味のない問いについての話でした。

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おわり

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