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言葉(共感)が暴走する世界で

速読とか多読というものに価値を感じません。
行間と余白を受け取ることもなしに読書するなんて考えられないからです。
本のページにある行間と余白。
その空間は意外に面積も広く、常に何かが存在を主張している気がします。
著者の綴った言葉以上の思いや世界が広がっているイメージ、でしょうか。

対話の場合は、読書で受け取る「行間と余白」からの情報、つまり言葉以外の情報が直接的に具体的に伝わります。
(その情報が自分の勘違いだったりする問題はどちらにもありますが。)
今は、対面でのコミュニケーションの大切さが特に強調される時代です。
もちろんわかるのですが…対面はいいとして、私は言葉の過剰さがよく引っ掛かってしまうんです。
テレビもネットも。
日常の対話でも。
本当に良い人たちなんだけど、そのおしゃべりが~…と、耐え忍ぶのに疲れることがよくあります。
たぶんですが、いつの時代にもいるおしゃべり好きなおばさんたちとは微妙に違うような?
何というか…ヘンに落ち着きのない幼い雰囲気がして(いい歳なのに)、テレビのバラエティ番組、情報番組で「しゃべらなきゃ!」と必死なタレントたちに似ている気がするのです。
影響受けちゃってると思います。毎日よく観ているみたいだし。

山際「言葉はたくさんあるコミュニケーション手段の一つに過ぎなかった。
ところが、現代社会ではその地位が極端に高くなってしまっている」

鈴木「~ 僕が今最も懸念しているのは、言葉に頼りすぎたことで、『文脈』を読み解く力』が衰退しているのではないかということです」

山際先生を知ったのは2019年、放送大学の『レジリエンスの諸相(’18)』という授業を通してでした。
元京都大学総長、ゴリラの研究で有名な人類学者です。
テレビ授業だったので佇まいや語り口から直に伝わってくるものがあり、人としての信頼を覚えたものでした。

山際先生はこう指摘します。

・ 人間に暴力性をもたらしたものとは、社会の発展をもたらした『共感力』の暴走である

・ 言葉には集団の共感を暴走させてしまう負の側面がある

テレビは何かと共感を押し付けてくる世界です。
良かれと思って以上は考えない薄っぺらさで。
言葉はいつも過剰で不足で。
もうすっかり、NHKの報道でさえも幼稚になって、何だか薄っすらと恐怖を感じます。

それでも、山際先生は希望を語ってくれます。
同じ種でありながらいつまで経っても殺し合いを止められない人類。
狩猟仮説も農耕生活による土地所有などを巡る争いを起源とする説も、いずれにしても人類の暴力性は根源的なものの一つであるかのようなイメージがありますが、山際先生は人類と同じ祖先を持つ類人猿が争いを避ける社会であることに注目するのです。
根源を辿れば、決して人類は暴力的ではなかったと。

もう一度書きます。
・ 言葉には集団の共感を暴走させてしまう負の側面がある
なのに、
「現代は言語化されない感情や文脈を読むよりも明文化されたルールや制度にすがるほうが生きやすい社会」に陥ってしまっています。
言葉依存の社会であることを自覚し、もともと備わっているはずの非言語的な情報を認識する能力を意識して使うようにしたいものですが、まずは…しゃべり過ぎ注意!かな?
「身体性を使った新たな縁(コミュニケーション)の必要性」と、「いろいろな共同体に同時に属すること」を山際先生は提案されています。
が、それもやっぱり言葉の過不足には注意を払って、としつこく言いたくなってしまうのでした。

本を読み終えたタイミングでこんな番組があったことを知りました。
テキストで先生の話を読むこともできます。
『NHKアカデミア 山際寿一』 
なぜ人類は暴力をふるい、戦争をするようになったのか?



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