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欲しいものは自分からとりにいけ

こんにちは。id_butterです。

「何年経っても忘れられない言葉」 3回目です。
これは、だいぶ昔20代前半のことだ。
第一回の「ありがとうと思ってなくても言い続けた、結果」と同じ上司の言葉です。

わたしには苦手なことがある。
好きだと自覚すること
好きだということ
欲しいということ
やりたいということ
決めること
…つまりわたしにしかできないことすべてだ。
大人がお菓子を配ってるとき、「わたしも」が言えなかった。
恥ずかしかったのだ。
欲しいと思うことすら「あさましい」と思っていた。
譲ることが美しいと思っていた。

そう、母親ののぞむ「(都合の)いい子」像を生きてきた。

「好きだ」ということ、いやその手前で思うことすらわたしには難しかった。
たったそれだけのことが、できない。
赤ちゃんのときからずっと母親にやられてきたことを思えば当然だった。
マンガが好きだと言えば、くだらないと言われる。
キオスクで買ってもらえるお菓子はバター味のチェルシーとボンタンアメだけだった。(今思えば謎のチョイス笑)
同じくドーナツ屋さんではピロシキしか買ってもらえない。(やはり謎。糖分だけじゃなく油分も気にすべき)
疲れて寝ていれば寝すぎだと文句を言われた。
修学旅行で親にお土産を買って帰れば「また無駄遣いをして」と怒られた。
つまり、わたしが「好きだ」といってよいことは、勉強とか運動とか大人ののぞむことだけだったのだ。一般的に子どもが好むことを「好き」であることはわたしには許されていなかった。

一般的に大人と言われる年齢になっても、わたしはそのように生きていた。
周囲の空気に合わせ、求められてそうな答えを返した。
だから、自己紹介はもちろん「何が好きなの?」というようなオープンクエスチョンが一番苦手だった。

そして、転職した会社で、例の上司に出会う。

上司は当時今のわたしくらいだったのだろうか。
20代だったわたしから見たら「おばさん」のはずの女性がとんでもない現役感を醸し出していて圧倒される。そんな女性だった。
彼女は、そんなわたしに容赦がなかった。

「わたしは、他の誰でもない、あなたを雇ったのよ。
 あなたとして仕事をしなさい。」

うれしさと苦しさと、焦燥感がこみ上げる。
わたしとして仕事をする、それは自分が好きなことを好きだということすら難しいわたしにはとてつもなく苦しいことだった。

そして、何よりも苦手だったMTGがある。
今でいう1on1みたいなMTGの制度がその会社にはあったのだ。
長期的なキャリアやプライベートを含む人生設計のプランなんかを話す。
これがもう、つらかった。
自分の話をするのが苦手なわたしには、声を発することすら、苦行だった。
上司はそんなつもりはない、むしろ普段業務で鬼のような形相をしてわたしを詰めてくる姿は何処へやら、穏やかな笑顔を浮かべていた。
本当はものすごく優しいひとだった、知っている。

そこで言われたのがタイトルの言葉だ。
「結婚はしないの?」と問われい返事を返す。
「まぁできればしたい気持ちはありますけどねぇ」と緩〜い返事を返す。

すかさず、言われた。
「ダメじゃない、ほしいものは自分からとりに行かないと。」
なんと返したかは覚えていない。

わたしは衝撃を受けていた。
正直、は?だった。
「あなたとわたしは違う」
「そんな肉食系じゃないからむり」
「とりに行く???」
とかとか、いろいろ脳内をかけめぐり消化しきれなかった。

とりに、とは「獲りに」なのか「捕りに」なのかわからないままだが、「取りに」とかでは収まらないような力がこもっていたように思う。

20年以上経った今、あらためてこのことばの重みを噛み締めている。
今できるか、やっぱりできな〜い!!!

なんでか、考えてみた。

欲しいものが目の前にあって、「それがほしい」と言えるためには

①自分の欲しいものがわかってること
②自分の感覚を信じられていること
③自分と相手の境界線ができていること
④相手や世界を信じられていること
⑤自分にそれだけの価値があると思えていること

が必要なのだけど、わたしにはもろもろ足りていないようだ。

まぁ①は当然といえば当然なのだけど、わたしには難しかったりする。
本当に欲しいのかな?今だけじゃないかな?そこまで欲しくもないかもしれない、とか色々考えてしまうから。すっぱい葡萄、まぁ全部いいわけです。

で、②が出てくる。
自分の「欲しい」っていう気持ちやワクワクする感覚を感じられているか。
これも、わたしには結構むずかしい。欲しいと思うことに罪悪感を感じてしまったりする。
なんだろう、ものには限りがあって、欲しいと思うことは誰かのものを奪うことみたいな「限られたパイ」の話が刷り込まれている。

そして、やっとのことで③にたどり着く。
③は「断られたらどうしよう、怖い」って話だ。
これはもう、どうしようもない。断るのも受け入れるのも相手の自由だ。
ただ、うまくいかないってことはただ合わないだけでそれ以上でもそれ以下でもないって知ることだ。就活の断り文句「ご縁がなかった」の通りでしかない。
でも、これを理解することは相手をより理解することだと思う。断られたとしてもその断り方や態度で相手のことが前よりわかるようになる。
その結果、相手を高く見積もっていたことに気づくこともあるかも。
つまり、相手が持っている自由は同じ分だけ自分も持っている。

まだある。
④の「相手や世界を信じられていること」≒「言う意味あるの」だ。
言ったところで欲しいものが手に入らないリスクを抱えて、なんでわざわざ言う必要があるのか。

それはその先にあるものを信じられているかということだ。
言った先の未来にあるもの、それは単純に欲しいものが手に入ることだけではない。
欲しいものには届かなくても少し前進することかもしれない、あるいは別の未来が提示されることかもしれない、自分の心に変化が現れることかもしれない。
あるいは、失うことかもしれない、でもだからこそ手に入るものだってある。失敗だけだったとしても、「ちゃんと失敗した」体験が手に入る。
同じものをどう見るか?その違いで得るものは変わってくる。

伝えること、それは自分を相手に知ってもらいたいという気持ちを相手に受けてとめてもらうことだ。
言わなければ内側でとどまって、外との関わりはない。
リスクはないけど、メリットもない。その「何も得られないこと」がリスクなのだ。
明日の自分が今日の自分と同じなら、OKじゃない。

「迷惑なんじゃない?」と勝手に思って自分の中で終わらせることはその人を信じていないことと同義だし、自ら関係性を貶めている。
相手をこれしきのことを迷惑だとしてうまく処理できない人、と見積もっているということだ。
「言ってくれたらよかったのに」と言われたことがある、まさにそれ。
もちろん相手を選ぶ必要はあるけど、大事なひとなら伝えてみるしかない。
②で自分を信じると決めた、だからその人を選んだ自分を信じる。
怖いけど、覚悟を決める。
でも捨て身のひとをコテンパンにやっつけてくるひとなんてほとんどない。
飛び降りたら崖が意外と低い、みたいな。

関係は双方向に育てていくもの。
①と矛盾するようだけど、欲しいものを限定しすぎると、失敗しかない。
欲しいものの上流にある自分の願望や自分だけでは意図できないような思わぬギフトもある。
それが、外と関わるおもしろさだと思う。

で、やっと最後の⑤にたどり着いた。
自分にそれだけの価値があると思えていること≒「わたし(ごとき)が望んでもいいの」だ。
これはもう、根深い。
無意識ゾーンにある気持ちだから、気づかない。
行動してみて自覚した。
なんで自分が行動しようとするたびに後ろに引っ張る力がこんなに強いんだ、そう思った。
これは毎日自分にいい続けるしかない。
後ろに引っ張る自分を無視して、行動し続けるしかない。
「自分にはそんなこと言う資格ない」そんなことは後ろに置いて進む。

と長々と書いてみて思う。
こんなおおごとだったの?…わたしには、ですが。
でも、もしこういうことが少しずつでもできるようになっているのだったらそれは「尊い」ことだと思う。


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