#63 欲しくて欲しくて欲しかったもの
こんにちは。id_butterです。
人生で最高に不幸な時に恋に落ちた話 の63話目です。
「人は鏡」
今日、久しぶりにこの言葉を聞いた。
いやなイメージを持つひとも多いかもしれないけれど、わたしはいい意味で捉えられるときもある。
noteで優しいコメントをいただけたら、自分にもそんな一面があるのかもしれない、と心がふんわりする。
今日、あらためてこの言葉を噛みしめた。
この前両親とごはんを食べた。
実はこの後からずっと疲れていて、眠さとだるさが抜けない笑
両親への怒りをずっと押し殺してきた。
自覚したのは20年前、それから自分の中でずっとそれと格闘してきた。
この前、それをやっと自分の外に出せた。
手紙を書いた。
ふたり分で10枚以上あった、内容は半分しか覚えていない。
そして、兄が飛んできて、両親がやってきた。
けれど。
ここでまた苦しさに襲われている。
目の前に座っている両親をどうしたら扱ったらいいか、わからない。
まず、話したいという気持ちがない。
だから相槌を打つしかできない。
けれど話題がないから、気まずい。
父親は株とコロナくらいしか話題がないけれど、どっちも意見が違いすぎてわたしが意見を言えば気まずくなるだけなのは目に見えている。
母親は孫の話が聞きたいらしい。
聞かれれば話すし、最近おもしろかった宇宙人のネタを披露してもみる。
けれど腹が立ってしまうのだ。
「本をずっと読んでるなんて、一番いいじゃない」という母の言葉にささくれ立つ。
まったく同じ習性を持っていた宇宙人に朝から晩まで文句を言いつづけたのとこのひとは同一人物なのだろうか。そして未だ評価をやめないことにも。
そして、父親はそういう話にそこまで興味がなく、飽きているのが横目で見てわかってしまう。
「いい父親」のフリをしにきたんだろう、たぶん。
所詮そんなもの、だったのにそれに振り回されて40年近く経つ。
…疲れてしまった。
そもそも、もう関係を修復する必要性がないから、目的を見失っている。
行き先がわからない。どんな努力が必要なのかも。
そして、「縁を切る」では解決しないであろうこともわかるから絶望する。
自分の中では、怨念みたいなものが強すぎて、制御が効かない、みたいなことが起こっている。
こうなっては、もはや実体の両親は関係ない。
両親に会うことで、いつかの両親に子どもだった自分が抱いた古い怒りや悲しみがじわりと表面化してくるのだ。
それはもう腐り果てあるいは風化しており、色も形も変わりすぎて、元が何だったのかすらよくわからない。
自分の中にそれがあること、それを正視することがつらい。
そうだった、これがいやで両親の前から逃げ出したのだった。
20年前の気持ちを思い出した。
千と千尋の神隠しのドロドロの神様みたいな、もののけ姫の怖い神様みたいな、そういう得体の知れない何かが怖いのだった。
それが、自分であることを認めたくない。
あのころ、両親はカオナシだと思っていた。
愛情が欲しくて追いかけてくる、オバケ。
追いかけてきては「自分はまちがってない」とわたしを説得しようとし、「なぜ親を愛さないのか」と詰め寄ってくる。
今日そうあるひとに話していたら、そのひとに言われたのだ。
「人は鏡」と。
一度、ショックを受けた。
でも考え直してみて、気づいた。
今、わたしは両親をカオナシだと思っていない。
そう、両親は変わっていたのだった。
変わっていると思いたくなかった。
今もやっぱり恨んでいるから、そのことに気づきたくなかっただけらしい。
「あなたがいいならそれでいい」
この前、母はそう言い、父は頷いた。
後半一緒にいるのがつらすぎて、頭痛により記憶が飛んでいた。
父という鏡も母という鏡も変わっていた。
「ちっとも変わってない」わけではなかったのだ。進んでいたのだ。
やっと認める。
あのころわたしはたしかにカオナシだった。
しあわせな「普通」のおうちの子がうらやましかった。
「あたりまえ」に子どもを愛せる両親が欲しかった。
どんなわたしでも愛して欲しかった。
無償の愛。
見たことのないそれに焦がれた。
それを持たないわたしを創り上げた両親を恨んでいた。
そして今度は、「恨むことをやめる」ことから逃がれられないらしい。
と思ったということは、わたしはずっと恨んだままでいたいのだろうか?
復讐とは、やられたことを三倍返しにすることなのか、そのひとを忘れてしまうことなのか、どっちがいいのだろう。
…とかではなく。
何があっても何をされてもどんなときも
「そんなこともあるよね」
そう思えることが最強であると頭ではわかっているのに、いつもできない。
いつも、とはたとえば会社で。
どんなにだいじょうぶなフリをしていても、尻尾が見えてしまっている。
けれど、それも変わってきていたことにようやく気づく。
わたしのそばにはもう父のようなひとも母のようなひともすっかりいなくなり、会社は平穏でしかない。
今気づいた。
そういえば、なくなってたということ。
そして、わたしが「いらない」と言ったのだった。
いろいろな変化がやっと腑に落ちる。
20年前は母ばかりに固執していて、父なんか眼中にもなかった。
母のことが整理されてきたから、次に父が浮上してきたのかもしれない。
それなら、わたしは少しずつでも前に進めている。
もしかして、手放せている…?
ここでは痴漢に遭ったことをやっと「わたしはわるくない」と思えたことを書いた。
努力する → 結果が出る という因果
親 → 子どもを愛しているはず という正当性
そういう「あたりまえ」に囚われず、目の前のそのままを受け入れることがわたしにはとても難しい。
努力すれば結果が出る、という因果を認めていたから、痴漢に遭ったのは自分に隙があった、という母の理屈に屈していた。
それに自分が苦しめられていたとしても、「あたりまえ」に支配されている方を選んできたのだった。
なぜかはわからないけれど、気づかないふりをして。
隣のともだちが愛されて育った「あたりまえ」が正しいなら、わたしにも与えられて当然だから、もらえないことに苛立っていた。
努力しなくてもその辺に溢れているはずの「愛」は、努力しても努力してもいつまでもわたしのところにまわってこなかった。
「あたりまえ」がわたしの前にだけない理由、を探していた。
目の前にあるありのままを受け止めること。
自分の中で起こることをそのまま受け入れること。
それを自分に許せなかった。
そう、今朝うちの宇宙人にもちょうど言ったところだった。
「もしママとケンカしたとしても、あなたはあなたの味方でいなさい。」
まんまだ。
やはり彼女もわたしの鏡らしい。
自分を許すことが不安だった。
自分はカップに入っているコーヒーか何かで、カップというルールで自分を固定していないと、とめどもなくどこまでも流れていきそうでこわかった。
自分がなくなってしまうより、つらい方がましだから、わかっていても自分に優しくする方を、選べなかった。
それに、どこに流れていくのかわからないということは、単に怖い。
未来というのはいつでも少し怖い。
目の前のひとが敵であるとき、自分の中にありのままの自分を受け入れられず敵とみなす自分がいるのだ。
それが、「人は鏡」という意味だった。
じゃあ、と思った。
目の前に現れた彼もわたしの鏡なの、だとしたら。
それは嬉しいことだと思う。
職場でひとを好きになったことなんて、皆無だった。
スパイダーマンと同じ、仕事をしているときは何かを被っている。
彼は職場でのわたしの仮面をはいでしまったひとだ。
彼の前では、嘘をつくどころか隠し事すらできない。
わたしは、彼のまえでただのわたしでしかいられない。
そして、彼は悲しむけれど怒らない。
前よりわたしに気を使わなくなったけれど、優しさは変わらない、いや前よりも優しくなったかもしれない。
チャットの文面でわたしのピンチがわかるらしく、外さない。
わたしより、自分を大事にしている。
そして、いろいろ大事なものを持っている。
そのままの彼が好きだ。
彼自身すら知らない彼らしさが好きなのだ。
それがわたしにとって不利なことであって、日々切なさをもたらすものであったとしてもだ。
異動先でも、そういえばと思う。
「わたしらしい」そして「わたしが主役」の仕事を上司から求められているように感じる。
それは社外にあるかもしれない、という話をしたりもする。
嫌味ではなく、とてもいい上司なので素直に受け取れる。
「人は鏡」
その言葉がつらいとき、悪い鏡しか自分には見えていない。
けれど鏡はひとつではなくて、無数にあるのだ。
気になる鏡が目立って見えるだけ。
それでも、ぼやかずにはいられない夜はあった。
「そのままで愛されたかったの。」
そう呟くわたしの周りを誰かが優しく包む。
「いるよ、ここに。そのままを愛しているよ。ずっと。」
そう言ったのは、誰だったのか。
わからないままだけど、わたしは満足して眠りについた。
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