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たい焼き

キッチンの照明だけつけて、洗い物をする。ようやくグラスが全部終わって、食器類に取りかかった。ざあざあと水を流して、泡のついた器や平皿をゆすいでいく。水切り籠に食器を伏せながら、ふとカウンターの隅に視線が行く。お祝いの品の数々、薔薇をあしらった花束やリボンのかかった焼き菓子の包み、ホールケーキの入った化粧箱。それらを眺めながら、まだ全然実感が湧かない、と思う。今夜、私は店を開けた。来てくれたお客さんとスパークリングワインで乾杯し、カウンターの内側で慌ただしく立ち働いた。それは想像していた様子とよく似ていて、でもまったく違うものだった。別の私がもうひとり出てきたような感覚があった。彼女はずっと自分の中にいて、出番が来るのを待っていたのだ。音楽が止まっていることに気づき、マックブックを操作してアンディ・ベイをかける。ほろほろと深くやわらかな声がスピーカーから流れてくる。新しい晒を袋から出して鋏で長めに裁ち、食器をひとつひとつ拭いていく。棚にすべてをしまい切って、晒をぎゅっと絞る。ふう、と一息ついてエプロンを外そうとすると、コンコン、と扉をノックする音がする。スピーカーのボリュームを絞って窓辺に近づき、カーテンの隙間から外を覗き見る。白いプラスチックの袋を提げてぼんやり立つ、見慣れた姿。私は扉を細く開ける。いらっしゃいませ…もう閉店しちゃったけど。遅くにごめん、これお祝い。彼は袋を差し出す。お礼をいいながら受け取って袋の中をのぞく。たい焼きだ。甘く香ばしい匂いを吸い込む。どうぞ、入って。私は店の中に彼を通す。ちょうど自分の出番が終わったから、抜けてきたんだ。悪びれる様子もなく彼はそういって、カウンターの真ん中の席に座る。ぐるりと店内を見回し、いい店じゃん、という。ありがとう、嬉しいな。私はカウンターの照明をつけて、キッチンに入る。忙しかった?と彼が聞くので、慣れてないから余裕なくてバタバタしちゃった、と答える。そっか。彼は面白そうな顔をする。何か飲む?カフェオレがいいな。私は笑って、ここはバーですけど、という。だってたい焼きだからさ、一緒に食べよう。彼はにこにこと笑う。相変わらず好きなことをいい散らかすなぁ、と私は苦笑して、ドリップポットに水を入れて火にかける。彼とは駅裏にあるクラブで知り合った。センスのいいDJで、いつもはっとするような選曲をした。細っこくて猫みたいにぐんにゃりしていて、つかみどころのない男の子だ。豆乳を冷蔵庫から出しながら、今夜はどんなパーティーでプレイしてるの?と尋ねる。…の五周年イベント、と彼は答える。二つ南の通りにあるカフェの名前だ。何度か行ったことがある。周年、私は頭の中でその言葉を繰り返す。私も一周年、二周年と祝うことができるくらい、長く店を続けられるだろうか。今はまったく想像がつかなかった。アンディ・ベイだね。彼は両手を頭の後ろで組んで呟いて、気持ちよさそうに目を閉じる。私はたい焼きを電子レンジに入れて温めのボタンを押し、コーヒーを濃いめに淹れる。小鍋に豆乳を入れて、泡立て器で混ぜながら温める。どうぞ、白い素焼きのカップに注いだソイラテをカウンター越しに渡しかけて、私は気が抜けたように笑ってしまう。彼は腕組みをしたまま、小さく寝息を立てている。カップを自分の手元に置き、レンジからたい焼きを出す。白い皿に移しながら、尻尾の焼印に目が止まる。隣町の飲み屋街にある、たい焼き屋のものだった。夕方から深夜までいつも長い行列ができていて、ずっと食べてみたかったけれど、それを見るたびに断念していた。私は彼の寝顔を見つめながら、静かにやわらかな気持ちになっていくのを感じる。熱々のたい焼きを立ったままかじる。しっかりと甘い粒あんがぎゅっとつまっている。美味しい。ソイラテに口をつける。温かい液体が喉を通って胃に落ちて、いいようのない安堵に包まれる。そういえば、今日は朝から一度もまともにごはんを食べていなかった。彼の閉じられたうすい瞼、顎に生やした無精髭、すこし開いた口元。私は今夜の天使に感謝する。もう少しだけそのままにしておこう、と思う。目が覚めたら、違うものが飲みたいっていいそうだな。私はたい焼きの尻尾にかじりつく。

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