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どんな時に人は「繋がり」を感じるか -KP+体験記no.3


 先日オーフスに行ってきた。デンマークにいた頃に何度か行ったことはあったのだが、今回ほぼ1年ぶり?くらいに行ったら、思っていたよりも心地のいい街で。
3泊はしたのに実際に街を見れたのは1日ちょっとだったが、
「ここいいなあ。住みたい!」

と思わせてくれる旅でした。小さいけれど自然があって、空気がきれいで。あとカフェやら服屋が(日曜に見たからほぼ閉まってたけど)少ないけどそれぞれの質が高い感じがして、もっと長くいたかった。。
コミュニティは狭いだろうし仕事もないのだろうけど。。

実際は半年〜一年くらいがいいかもしれないが、将来の住みたいところリストに書き込むことにした(そんなものはない笑)

 そして相変わらずベルリンという土地をあまり好きになれない私はふと次はどこに住もう!アムスかなーフィンランドかなーと考え始めてる。(プログラム終わったら一刻も早く出たいと思い始める😂)

 明日はプログラム始まって最初のプロジェクトの発表日。少し前から何回もグループワークと書いてたものが一旦終わる。あっという間だった、、、!

 私たちのグループのテーマはコミュニティ、ダイバーシティ、ローカルアクティブの3つ。
現代の我々はとても個々人で生きてて、繋がりが希薄になっており、そして自分と似た人ばかりの同じソーシャルバブルの中にいて中々その外に出て知る機会を失っているという現状に対して何かアクションを取れないのか。

という認識で2〜3週間(実質の活動日数は6日間)4人のはずが最終的には6人でw活動した。


 私たちのプロダクト(=アウトプット)は簡単にいうと
できるだけ普段の生活で合わない人/多様性があるグループで一緒に晩御飯を囲んで特別な体験を作るというもの。
人と人を繋ぐにはどんな方法があるだろう?というスタートから誰をどのように招待するのか、どんな体験をその時間に作ることができるのか?などを話合った。


 多様性ってなんだろ?とか、どうやったら知らない人を誘える?とか、何をしたらいい思い出になるか?とか、グループで違う方向性に話が上がった時にどっちに進めばいいのだろうか?とか色々と悩んだり考えたりすることはあったのだが、
プロジェクト期間のある日、授業時間終わりに

「私たちこんなにコミュニティとかつながりが〜みたいな話してるのに、私たち自身(一年のプログラムをしているみんな)が繋がってる感じが全然しないのだけど、私だけ?」

とこぼしていた。確か3週目ごろだったと思う。
そして今日、その場にいなかった別のチームメイトも同じことを言ってた。

「もし今このプログラムを辞めたら、このチームの誰とも、もう一生会わない気がするな」




 私たちは仲が悪いわけではない。毎日朝きたらハグして挨拶して、ディスカッションを重ねて、、、攻撃的な人はいないしお互いを尊重し合ってるのは伝わる。が、繋がっているか?と聞かれると、Noと全員が思うのではないだろうか。なんか医者の不養生みたい。

 私たちは明日のプロジェクトの発表で、
「どうしたらもっとみんな(このプログラムのみんな)が繋がれるか?」と聞くことにした。


 で、他人に聞くだけで考えないのもなと思うので、私も何をもってして人と繋がっていると私は感じるのか、考えることにしてみた。


 まず思ったのは、グループでいる限りは私は強い繋がりを感じられないなということ。個人的に大人数/集団というのは基本苦手だ。1人でいるよりも疎外感を感じることが多い。一対一で、私はその相手1人に集中して話を聞けて、相手も私だけに集中してくれる状況じゃないと仲良くなれないなーと思ってしまう。ゆっくり相手のことを知りたいというのもあるし、他の人に相手の興味を取られたくないという傲慢さもある。
だから私にとってグループで行動してる限りに仲良くなれたなという感覚はほぼ生まれない。
(それぞれと仲良くなってからまとめて遊びに行くとかは好き)

 また今回のようなプログラムとか、学校のクラスの中だけで繋がりを強く持つのもなかなか難しいなと思う。
というのも自分の心の中とか、本心みたいなところを共有した時に私は仲良くなれたと思うが、クラスなどの場はある程度のパブリックな私でいることから抜け出せないような気がするからだ。
プライベートな私を見せて、かつ相手のプライベートな部分を見れた時に繋がりを感じれる。たまーにいつまで経ってもこの人の本心わらない、、みたいな人がいるのだが私はそういう人とは仲良くなれないなと思う。本音を知るは私の中では重要。

 単純におおよその場合は時間も必要だと思う。例えば部活の友達やサークルの友達と強く繋がれていると思えるのは過ごした時間が多いからだろう。(たまーに、一日の出会いでこの人とずっと仲良くできる!て思えることもあるけれど)
もちろん一緒に何かをしたとか、困難を乗り越えたとかもつながりにつながる。



 と、ここまで書いて下書きに保存してたら、かなり日数が経ってしまった。。(1日で書き切らないとテンションが迷子になる。上と下とでつながりが悪く感じられたらすいません)
少し空いてこの前また学校の中で似たような話題がでたとき、私の頭にふとexcludeというワードがでてきた。

 私の英語力が微妙なもんでこれが私の思ったことを正しく表せているのかは微妙だが、
「境界線を作ること」
で私は人と繋がりを感じるかもなと思ったのだ。友達の輪みたいなのを作ってその内側で濃い関係性を築くって逆に外側の人間を作るってことかもなあ。と。
じゃあ誰かと繋がるって常に誰かを排除するってことなのでは?
この発想自分的にすごく面白い。私たちはプロジェクトでinclusive な世界を目指して繋がりを作ろう!と話してたのに、反対の意味の言葉が頭に浮かんでる。

 これはかなり個人の感覚の話だけど、誰かと誰かとの関係性って相対的に見てしまっていることが多いのだと思う。それってすごく他人からどうみられているかを気にしてる人間の発想だなあ、絶対的な繋がりもあるはずだよなあ、、と思う一方で、いや?相対的な関係性しかないのは当たり前では?とも思う。
だって、この世の中に私とあなたしかいなければ、そこに繋がっているか繋がっていないかという感想は必要ないように思える。

 繋がりとは他の誰かとの関係値との比較の上で感じられるものなのか。


 この考えに近いものとして、「秘密の共有」も繋がりを感じるきっかけになるなと思った。例えば「私しかしらないあなた」みたいな感覚も秘密に入るかもしれない。秘密は全員が知っていると秘密でなくなるため、秘密を作るには常に、
「そのことを知らない誰か」という存在が必要だ。
つまりどこかで線を引いて他者をつくるということだ。
あまりいいことではないかもしれないけれど、愚痴を話し合えると私は繋がりを感じる。それってオモテには言えない何かであり、一つの秘密を共有できているという感覚なのではないだろうかと思うのだ。

 逆に言えば、みんなで仲良くの範囲を広げれば広げるほど繋がりの感覚は薄まるような気がしていて、それが今の自分達に起きているのではないか?と思う。
とはいえ自分のこの考えはとても安易で、みんなに間口が開いたままかつ繋がりを濃く持つにはどうしたら良いかと考えることがやるべきことなのだと思う。

 みなさんはどんな時に繋がりを感じるのでしょうか?


と。ここまで書いて公開したあと、しばらく経ってまだまだ私は繋がりについて考えてた。

例えばドイツやデンマークで日本人と出会った時、その人がどんな職業や立場、出身であろうと日本人であるというだけですごく親近感わくし、(少なくとも私は)親しみをあった時から持ってしまう。が同じ人に日本で出会ったとして、同じ繋がりを感じるか?と言われれば確実にノーだ。
これは異国の土地で周りが異国の土地の人の中から日本人に出会ったから感じるのであって、日本人しかいない環境であっても感じない。
そしたら繋がりの濃淡はやはり他との比較または環境依存といえるよな。と自分の考えに納得した。


が、一方で「ん?排除、、、え?私もしかしてヒトラーと同じこと言ってるよな?」と気づいた。
ユダヤ人を敵と見なすことで自分達の中を深めるというやり方と、私のいう排除は全く同じだ。我ながら恐ろしいことを言ってしまったなと思う。
ただこれは人間の心理なんだろうなとも同時に思った。
1番簡単なやり方であるのだろう、が1番簡単なことがいいとは限らない。カオスパイロットいると「こんなにめんどくさくしなくてもいいじゃん、、、」って思うことがたまにあるのだけど、このめんどくさい、複雑さに向き合い続けること、がこれからに必要なのだろうなと思う。
みんなが生きやすい社会になればと私は思う。それって私の心地よさが優先されることなのでは?と思っていたのだが、そうじゃない。
誰かの快適は誰かの不快かもしれない、シンプルで単純なことは楽だし、快適だが、これからの「みんな」のための社会って、複雑で面倒の中にあるのではないだろうか。それぞれが自分の快適を少し譲り合うことなのかもしれないなと考える。

だから1番簡単につながるのは他者との間に仕切りを作ってしまうこと。だけど極力誰かを仲間はずれにせずに繋がる方法を模索しなければならない。

というのが答えなのではないだろうか。





 

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