見出し画像

生き生き 充実

この状態に不可欠なものは何か。
何があれば、生き生きしているとか、充実した人生であるとか、そういったことを感じられるのか。
種々様々なものがあるだろうが、一番重要な要素は一体何なのか?

私は思う。

それは 期待感 である、と。

人間は未来への期待感を持っていると、生き生きしてくるのだ。

仕事を例に考えてみよう。日々の仕事に対して生き生きと没頭しているのならば、それは仕事の結果・成果など後の未来に対して期待できるからこそだ。仕事そのものの結果に限らず、この仕事を乗り越えた先の自分自身の状態に何かしらの期待を持っているから没頭できるのだ。たとえ、その取り組んでいることが結果的に失敗に終わる可能性が高かったとしても、そこに未来への期待感がわずかでもあれば、生き生きと取り組める余地がある。逆に、期待感を抱けない状態で没頭したり生き生きと取り組むことは不可能だ。
例えば、大きな案件受注のために競合他社とプレゼンで競い合うことになったとする。裏で既にライバル会社のA社が採用されることが決まっていて、実はプレゼンが行われるのは形式だけだということが耳に入ってきたとしたらどうだろうか。そんなプレゼンの準備に熱中できるわけがない。
いや仮にそのような状況だったとしても、全力のプレゼン内容を評価してもらって別のチャンスを得る下地作りだと思って業務に熱意を持って取り組むべき、だとか、こっちも裏工作をしてA社採用既定路線をひっくり返すことに奔走することに熱中しなさいだとか、そういう意見もあるだろう。他にも意欲を出すいろんな方法・考え方はあるだろうが、いずれも「結果に期待感を抱ける状態」を作り出しているのだ。つまり何かしら未来への期待感がないことには、どうにもならんのである。
何万人もの利益や世界規模での貢献になる素晴らしい仕事だったり、超高報酬の仕事であったとしても、もし取り組む本人がそれを知らず「なーーーんにもいいことありゃしないぜぇ、こーんなことやっていても俺っちにはむしろマイナスだぜぇえ」みたいな期待感0の心理状態ならば、生き生きして仕事に取り組むわけがねぇのである。

スポーツ選手やトップアスリートがコツコツと日々努力と研鑽を続けられるのは、そこに勝利を手にする未来への期待感があるからだ。素晴らしい成績を残すプロ達は、苦しい鍛錬をしている中でもその眼差しがどこか輝いて見える気がするのは、期待感のせいではないだろうか。
頑張ってもどうせ上達しないし勝てない、などと思っていたら、生き生きから程遠いし、良い成績を出すことは叶わないだろう。

ゲーマーがゲームをしていて楽しいのも、ゲームしていることそのものが楽しいのもあるだろうが、例えばRPGならこのゲームを進めるとどうなるんだろう?この先の展開はどうなっていくんだろう?というワクワクした期待感があったり、キャラクターが成長して強くなって活躍していくことへの期待感があったりするわけだ。
対戦ゲームで勝つことが楽しいのなら、勝った状態の自分、強くなった自分になることを期待して熱中していると言えよう。
(そう、そこには未来への期待感があるのだ。)

ドラマや映画、小説などでワクワクしているのなら説明は簡単だ。見たり読んだりしている時、そこにも未来への期待感がある。内容がサスペンスやホラーなど、先の展開が怖かったりネガティブなものだったとしても、この先一体どうなるんだ?という期待感がそこにあるのだ。
逆に展開が全てバレバレなものや、ストーリが短調で展開に動きがない物語はつまらなく感じる人が多いはずだ。それは期待感が少ないからだ。

シンプルに、目の前の美味しそうな食べ物をみて美味しそう!うまそう!食べてみたい〜、とワクワクした気持ちになるのは、それを実際に口にした時の感覚を期待してワクワクしているのだ。


そんなこんなで、期待感ってやつが色々な角度で生き生きとか充実の根源になっていることを納得していただけただろう。いただけたよね??

とにかく、それが正しいことだとしよう。


と、いうことはだ。

なんだかやるせない日々を過ごしていたとしたら、短期的、中期的、長期的などいろいろなスパンで期待感を作るとよいのではなかろうか。短期的なのは例えば今日は美味しいお高めのお肉を買って食べようとか、なんでもいい。
中、長期的には、お金をもっと稼いで世界を旅している、欲しいものを手に入れている、カッコよくなっている、恋人と素敵な生活をしている、などなど、人それぞれのワクワク・期待感を持つ対象を見つけてそれに向けて行動するのがええんじゃなかろうか。期待感を持つ対象は人によってぜんっぜん違うので、期待感が持てるものならなんでもいい。

自己啓発界隈がずっと一定の人気を保っているのはこの期待感ってやつが理由だ。
宣伝文句や煽り文句によって、未来の自分に対して期待を抱かせられてしまうのだ。セミナーを受けたり本を読むことで、その先の未来の自分が今より望ましい自分になることを期待する。場合によっては自己啓発ジャンキーとなり、インスタントな期待感を持つことから逃れられなくなる。ちょっと話がズレた。戻そう。

期待感がある、つまり期待通りに行くんじゃないかと思うと、人は生き生きしてくるものなのだ。
期待が外れると、がっかりしたり、落ち込んだりしたり、自分の人生に絶望したりする。

その絶望が深ければ深いほど、それは期待が大きかった、つまり自分の人生への期待が大きかったということの裏返しでもある。期待していなけりゃ、絶望しようがないのである。

そういうわけで、自分の人生へ期待をしないように無意識下で抑圧をかける人も世の中にはいる。期待をしてしまうと、がっかりするかもしれないから。だから始めから期待もしない。生き生きもしない。あのブドウは甘いんだろうけど自分には全く関係ない。

でも、自分への期待ってやつを長年抑えつけてしまうと、、、気づかないうちに何か得体の知れないドロドロした嫉妬心、自責、後悔の念とか、、そういうものを熟成させてしまうことがある。
そしてそれはそのうち爆発するのよね。
密閉された容器の中でなまものの発酵が進むと、容器自体突き破って爆発してしまうように。(なまものが入った袋をきつく縛って炎天下に置いておくとパンパンになってそのうち爆発するよね。アレコワイヨネ。)

だから、自分がどういうことに期待感を抱いたりワクワクしやすいのかを把握しておくことはとても大事。
中・長期的に期待感を抱ける対象を見つけるのが良い、なんてことをさらっと書いたけど実はこれが人によって難しいことだったりもする。こういうのがすらすら出てくる人は、自分の人生を結構楽しめてたりする。

出てこない人は、、、今この時この瞬間が常に最高の状態だぜ、だから未来に期待なぞするわけがないんだぜみたいなスーパーマン。というわけでなければ、これまでの人生を生き抜いていきた過去のどこかで、未来への期待が出てこないように心に蓋をしてしまったのだ。気づかないうちに。
自分が何に期待感を抱くのか、ワクワクするのかについては、たいてい幼少期にそのヒントがある。自分が子供の頃ワクワクを抱いた対象を思い出したりすると、自分の期待感の矛先がわかったりする。

他にもいろいろなアプローチがあるのだけど、それはまた今度にしよう。
期待ってのは奥が深くて面白いぞ。

今日は期待感と生き生きとかそういう話でした。

じゃまたね。

いべ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?