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我が母の記 時々は父


「本当にお姉ちゃんはお母さんそっくりね。」


今日も妹はあきれ顔で私に言うのですが自分に一番影響を与えた人は誰ですか?と聞かれたならば、偉大な思想家でもなければ恩師でもなく、私は確かに母だと答えるでしょう。彼女は強く厳しく、ちょっとだけ他のお母さま方と違うようなのです。


昭和育ちの私ですから一般的な家庭では日常の小さなことを母親が注意し、大きなことは父親が出てきて叱るというスタイルが多いのではないかと思っていますが我が家の場合も同じでした。ただ、違うのは最初に来る母という関門が手ごわすぎて、話が父に届くころにはすでに私は青息吐息。父はそんな私に喫茶店でココアを飲ませてくれ、静かに話すのです。その相関図が他の家と少し違うと気づいたのは高校生になってからでした。


母のエピソードは沢山あるのですが一つ忘れられないのは妹と母と三人で車に乗っているときに私と妹は喧嘩を始めたことがありました。私たちに母は「喧嘩をやめないと車から降ろす」というのです。もちろんそんなことで収まる私達ではありません。すると本当に降ろされてしまいました。家までは軽く見積もっても5キロ。私はまだ10歳にもなっていないときですから妹も小学校に入ったか入らないかくらいの時ではないかと思います。二人で途方に暮れましたが、道もうっすらですが覚えているし、何より日が暮れてしまうので仕方なく歩き出しました。ケンカしていたことも忘れて、手をつなぎながら。

今だったら通報されるんじゃないかと笑い話になっていますけれど、一人っ子の母は子供達には兄弟姉妹を持ってほしいと二人生んだのでその二人が喧嘩をするのは耐えられなかったのでしょう。そのおかげか!?今の妹は私にとって親友であり(大概は悪友の場合が多いのですが)、ライバルであり、互いの秘密の守り人です。作品にもエッセイにもこれから彼女の登場機会は多いはず。


夕暮れの道を半泣きの妹の手を引いて帰ってきた私に父は「お帰り」とだけ言ってにっこり訳知り顔で笑っていました。


今の基準で考えれば青ざめるようなエピソードが多いのも事実ですが、母自身のコンプレックスや諦めてしまったことを私には体験させたくない、幸せに生きていく力をつけてほしいと彼女なりに一生懸命私と向き合っていたのだと思います。世の中の厳しさも、気持ちの強さも、子守歌代わりの「22歳の別れ」も、若いころボーイフレンドたちを落とした唐揚げの味も思えば母から教わったもの。どれも今の私の暮らしを支えてくれています。


母とそっくりだからこそ、母の人生からは180度違う暮らしをそれなりに幸せに暮らしています。取り立ててそれを具体的に話したことはないのですが、次に帰ったら真っ先に話してみたい。

母はどんな顔するかしら。

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