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【短編小説】祖母と私#清潔のマイルール

(読了目安10分/約8,300字+α)


 別に、お祖母ちゃんが嫌いなわけじゃなかった。同じ市内に住んでいたし、時々お母さんと一緒に顔を見せに行った。あらかじめ遊びに行くことが分かっていれば、普段お祖母ちゃんは食べないようなお菓子が用意されていて、色んな煮物やいくつかの総菜を用意してくれていた。でも一緒に暮らすのは別の話だ。

「ほら、未来もお祖母ちゃん好きでしょ。大学も近いし」

 お母さんはこともなげに言うと、当然のように私の荷物もまとめた。

 私の両親は離婚したらしい。ほとんど家に帰らなかった父は、案の定他にも家庭があったようだ。でもお母さんも総合病院の救急で看護師をしていて、家にいる時間が不規則だったため、私はほとんど一人だった。誰も帰ってこない家なんだから出ていく必要は無いと思っていたが、離婚調停で家を売ることになったらしい。

「丁度良かったわ。お祖母ちゃんももうすぐ八十歳でしょ。一人で置いておくのもちょっと不安だったから」

 お祖母ちゃんは「しょうがないね」と口では言いながら嬉しそうな様子で、ますます一人暮らしがしたいなんて言い出せなかった。

 お祖母ちゃん家で暮らすようになっても、お母さんは変わらず仕事ばかりでほとんど家にいなかった。家にいるのは、私とお祖母ちゃん。二十歳と七十八歳。約六十歳の差で、突然一緒に住むことになった私たちの間に共通の話題なんてなかった。

 それにもう一つ、受け入れがたいことがある。おそらく築四十年くらい経っているこの家だ。和室に布団を敷いて寝るのにも慣れないし、部屋を暗くして寝ようすると、どこからかカサカサと虫の気配がする。お風呂とトイレのタイルが寒くて、時々割れていて、部屋の隅は埃がたまり黒ずんでいた。キッチン・ダイニング(というよりも台所と食堂だ)は薄暗くて、収納の中が湿っぽい。長年使っている鍋は底が変形していて、お玉はサビついている。

 一つ気付く度に、全身に鳥肌が立った。その場で息を吸うのを体が拒否し、離れたところで咳き込んだ。それがストレスになっていたのか、引っ越して一週間で熱が出た。

 朦朧とする意識の中、布団でウトウトとしていると、襖の向こうから「未来ちゃん」と声が聞こえ、静かに戸が滑る音がした。

「ああごめん、寝てたかいね。少しは何か食べた方が良いと思って」

 上体を起こすと頭がグラグラした。その様子を見たお祖母ちゃんが心配そうに顔をゆがめる。手に持っていた盆を私の布団の近くに置いた。俵型のおにぎりが二つと味噌汁だった。

「ご飯はやわめに炊いたから、消化にもいいけ、少しでも食べなさい」

 私は「ありがとう」と言い、盆に向き直り箸に手を伸ばす。

 その途端、お祖母ちゃんが大きく息を吸い、くしゃみをした。顔を背け、手のひらで口を押えていた。そのしわしわの手のひらをチラリとみると、反対の袖で拭う。

 あ、お祖母ちゃんもだ、と思った。

 ここのところ毎日着ている服は毛玉だらけでところどころシミもついている。自分で編んだらしいベスト(チョッキと呼んでいる)は毛羽立って、たまに糸がほつれている。肌はカサカサしていて、おでこがかゆいらしく、皮膚が粉っぽくなっていた。

 箸を盆に戻した私を不思議そうにお祖母ちゃんが見つめた。

「ちょっとまだ食欲が出ないから、もう少ししてから食べるよ」

 そう言うと、お祖母ちゃんは頷き「ゆっくり休みなさい」と言って部屋を出て行った。

 私は立ち去る足音を確認し、枕もとの自分のカバンからアルコールスプレーを取り出し、おにぎりと味噌汁にかけた。箸と自分の手にもスプレーをしてティッシュで拭くと、味噌汁をすする。温かい汁が喉に心地良かったが、あの鍋とお玉でお祖母ちゃんがよそっている光景を想像し、むせた。

 なかなか受け付けない喉におにぎりと味噌汁をようやく流し込むと、お母さんがノックも無く入ってきた。

「熱は?」

 おかえりと言う間もなく、お母さんは目の前に座り、眼をじっと見つめてきた。

「寝る前は三八度六分。今はわかんないけど少し楽」

「ちょっと計ってみて。先生から解熱剤も一応もらっておいたから。他に頭痛とか吐き気、めまいとかある? 鼻水は?」

 私は体温計を脇に挟みながら、お母さんと「ただいま」「おかえり」以外の話をしたのがひさしぶりのように感じた。

 お母さんはチラリと盆を見る。

「ご飯と味噌汁? 全部食べたみたいね。食欲はありそうね」

「ねえ、お母さん」

「ん?」

 何と言ったらいいかわからず、少し言いよどむ。お母さんの生まれ育った家とお祖母ちゃんなのだ。汚いなんて言えない。

「お祖母ちゃんが使ってる鍋とかお玉、結構年期入ってるよね。サビも取れないし衛生面もちょっと心配で」

「あら、そうなの?」

 中学生の頃から、料理は私の担当になった。もともと料理が苦手だったお母さんは、実家でも台所に立つことは少なかったのだろう。引っ越してからも冷蔵庫を開け、ビールを取り出す姿以外は見ていない。

「部屋も湿っぽいし、埃が溜まってるし、お風呂やトイレも寒いでしょ」

「まあ、この家も古いからね」

「そういうのが、ちょっと……」

 何と言ったらいいのか悩み、口を閉じた。体温計が鳴る。

 お母さんは腕を組み、少し考えていたが「わかった」と呟く。

「さすがにリフォームまでは出来ないけど、調理器具とかは未来の良いようにしなさい。湿っぽいのとか埃が溜まってるのは、気になる人が気にならないように掃除するのが鉄則。お祖母ちゃんには言っとくから」

 そう言いながら、お母さんが無言で手を出す。体温計を渡すと、八度二分か、と呟いた。脇に置いてあったカバンから紙袋とオーエスワンを取り出し、盆の横に置く。

「とりあえず今はこれ飲んで寝てなさい」

 お母さんはそう言い、部屋を出て行った。


 目が覚めると、全身に汗を掻いているのがわかる。シャワーで流したいが、まずは水分補給だ。部屋を出て居間へ行くと、お祖母ちゃんが座椅子でテレビを見ていた。

「少しは楽になった?」

「うん。熱は下がったと思う」

「そう。それは良かった。どれ、大根おろしでもすってあげようかね」

 冷蔵庫を開けるとオーエスワンが三本寝かせて入っていた。そのうちの一本を取り出し、喉を鳴らして飲む。乾いた身体に沁み込むのがわかる。

「大根おろしはいいよ。あんまり好きじゃないし」

「あら、大根は風邪にいいけ。消化もいいから」

「じゃあ、ふろふき大根にしよう。体もあったまりそうだし」

「そう。じゃあ、そうしようかね」

 お祖母ちゃんはテレビを消して、立ち上がる。台所の足元に新聞紙に包まれて転がっていた大根を拾い、洗う。

 私はペットボトルを持ったまま、居間の座椅子に腰かけた。キャップを開けかけて、ふと机の上にタブレットが置いてあることに気付く。ピンク色のカバー。お母さんのだ。忘れ物だろうか。

 何気なくカバーを開くと、メモ用紙があった。

「未来へ。お祖母ちゃんには伝えています。このタブレットのアプリから欲しいものをカートに入れておいてください。また帰ってきた時に注文しておきます」

 タブレットを立ち上げると、パスワード認証も無く開いた。いくつもの見慣れないアプリが並んでいる。スライドしていくと、一番右のページにショッピングカートのアイコンのアプリが一つだけあった。おそらくこれだろう。大手サイトなので、欲しいものはだいたいここで買えるはずだ。

 思いつくものから順に検索してカートへ入れていく。鍋、フライパン、お玉、フライ返し、ゴムベラ、ボウル、菜箸、トング、まな板、包丁、タッパー……。また掃除道具を一式と、タオルも一新する。気が付くと合計が十万円を超えていて、うわ、と声が漏れた。もう一度商品を見直し、極力安く抑えられるように商品ページをじっくり見た。でも使い勝手が悪ければ意味が無い。

 お母さんのメモの下に「できるだけ安いものを選びました。これ以上安いものは使い勝手が悪いのでダメです」と書き、同じように挟んでおいた。


 風邪が完全に治った頃に、注文していたものが届いた。続々と届く荷物に何事かと目を丸くするお祖母ちゃんの横で、段ボールを開封していく。すべてが経年劣化している家の中に次々と現れる新品の調理器具は輝いて見えた。

 上下ジャージに着替え髪を結ぶと、大きなゴミ袋を片手に、古い調理器具をどんどん入れていった。お祖母ちゃんは「まだ捨てんでも使えるのに」と残念そうに言うものの、手を出して止めることはなかった。

 長年暮らしていくと自然と物は増えるのだろう。一度も使ったところを見たことがない器具もたくさんある。収納棚にあるものを全て机の上に置く。中にはお祝いの熨斗が付いたままの箱も多い。

「昔は、内祝いや何かでようけもらったもんでね」

 お祖母ちゃんは懐かしそうに眺めている。茶器セットや酒器セット、大皿やホーロー鍋。デザインはレトロだが、今使っている黄ばみが取れない皿やひびの入った碗に比べればずっとマシだ。

「お祖母ちゃん、こういうのは全部使おう」

 使うことには素直に了承してくれたが、今ある皿を捨てるときには「ああー」と声を上げる。私は気付かないふりをして淡々と作業を続けた。

 ゴム手袋をして、古いタオルを固く絞り、収納の中から外まで拭いていく。開かずになっていた窓を拭き、動かせるものは全て動かしてゴミを払い、塩素系の洗剤でキッチンを徹底的に磨く。

 お祖母ちゃんがお茶を入れてくれて、出てきたお祝いの送り主の話や、使い方の分からない器具の話、お母さんの小さい頃の話を聞いた。今まで気づかなかったけれど、お祖母ちゃんは饒舌だった。

 一日かけて台所を磨き、新しい調理器具を並べる。食器棚に並ぶ器も今までの半分くらいで、どこに何があるか一目で分かるようになった。

「はあー、なんか他人の家の台所みたいだねぇ」

 お祖母ちゃんは恐る恐る台所に立ち、味噌汁を作ってくれた。しまう場所は大きく変えていない。そんなに戸惑うことなく作る姿を見てほっとする。

 だが箸でつまんだニンジンにひげが生えているのを見て、固まってしまった。しばし考えてから口を開く。

「お祖母ちゃん、ニンジン、皮むかないの?」

「野菜はね、皮に栄養があるんだよ」

 お祖母ちゃんは諭すようにニッコリとほほ笑んだ。

 私もそれは知っている。でも最近の野菜は農薬がたくさんついているの。皮も食べるならしっかり洗わないと体に悪いんだよ。お祖母ちゃん、時々お皿も泡がついたままだよね。そう言いたくなるものの、ぐっとこらえる。

「今度から私も一緒に手伝うから、色々教えて」

 お祖母ちゃんは嬉しそうに、何度も頷いた。


 翌日は水回りの掃除をした。ひび割れたタイルはどうしようも無いが、頑固な黒カビを撃退し、窓を拭き、電灯のカバーを洗うと、全体的に明るい雰囲気になった。洗面器は新調しようか迷ったが、試しにこすってみると案外綺麗になったのでそのまま使うことにした。

 脱衣所の物も一度全て取り出し、徹底的に磨く。洗濯機は動かせなかったため、地面に顔をくっつけるようにして埃を拭い取る。洗濯機の近くの床はふかふかと沈む。水漏れして床が腐っているのかもしれない。私にはどうしようもないため、お祖母ちゃんに話し、一日中換気扇を回しておくようお願いした。

 お祖母ちゃんも私が動き続けていると気になるらしく、廊下の壁紙等を拭いて回ってくれる。額の汗を服の袖で拭くのを見て、今だ、と思った。

「お祖母ちゃん、その服も洗濯しようか。汗かいたでしょ」

「あー、まあ、大丈夫だよ。袖くらい、ちょっと水つけて揉めば」

「お風呂入った後、洗濯機回して夜干せば、朝には乾いて着れるからさ。ね」

 少し考え「じゃあ、そうしようかね」と呟く姿に、私は気付かれないように息をつく。


 トイレ、玄関、居間、続き間、応接間、と毎日掃除をした。欄間の埃から仏壇の裏まで、腕や背中が筋肉痛になるくらい動いた。そのせいか、布団でもぐっすりと眠れるようになり、夜に虫の音が気になることも無くなった。

 黄ばんでしまったプラスチックの収納や、どんなにこすっても落ちない汚れはあちこちに残った。だが大掃除が終わった後にはもう気にならない。その頃には、皿に残った洗剤の泡もさりげなく洗えるようになり、お祖母ちゃんが同じ服しか着ないことも気にならなくなっていた。


 お祖母ちゃんとの暮らしは意外と忙しかった。十二月に引っ越した荷物を片付け終わった途端、熱を出したためでもあるが、部屋の大掃除が終わるとすぐに新年を迎える準備をした。しめ縄を買い、お節料理を作り、餅を準備する。片付けているときに教えてもらった炊飯器のようなホームベーカリーのような機械で餅を作るのだ。その餅つき機でついた火傷する熱さの餅を、急いで形を整えた。

 新年は少しゆっくりできたのもつかの間、セリ以外は聞いたこともない七草がゆを食べ、床の間に飾っていたカチカチの餅の鏡開きをしてぜんざいを食べ、公民館の空き地で行われるどんと焼きに加わり(同じ市内なのに開催されていること自体を知らなかった)、寒い日の朝から大豆を洗い一年分の味噌の仕込みをした。すべて丁度良い時期が決まっていて、暦に従って行えば無病息災に暮らせるのだとお祖母ちゃんは教えてくれた。

 二月になると、味噌づくりのときに取り分けておいた大豆を煎り、庭からヒイラギの枝を切って焼いたイワシの頭を差した。はじめて見たヒイラギは、クリスマスの飾りで見かけるのこぎりのような葉っぱだった。「暖かくなったら、南天みたいな赤い実がなるけ」と教えてくれた。

 家に入ると、二人で台所に立ち酢飯を用意した。干ししいたけの汁でしいたけとかんぴょうとニンジンを煮て、だし巻き卵を細く切り、きゅうり、煮穴子、茹でたほうれん草を巻きすでしっかりと巻いていく。欲張りすぎて太くなった恵方巻きを「食べれえかなあ」と二人で笑った。


「今年の恵方は、南南東のやや南だって。難しいね」

 私はこたつに入りスマホで方位を確認し、指さす。昼間なら庭を眺めながらだが、日が暮れてカーテンを閉めたため見て楽しいものは無い。

「いやー、よう食べきれんけ、半分にしようか」

 皿に載った太巻きをじっと眺めていたお祖母ちゃんが包丁を取りに立ち上がる。

「ダメ。切らずに食べるのが恵方巻でしょ。食べきれなかったらそこでやめればいいじゃない。ね」

 お祖母ちゃんは笑い、座り直す。私は改めて、恵方を指さす。

「食べれるところまででいいから、しゃべっちゃダメだよ。黙って願い事を思い浮かべて」

「この歳になると願い事も無いけどねえ」

「いいから。やろうよ」

 私はカーテンを見つめこたつから出て正座する。お祖母ちゃんが真似してカーテンの方を向くのを見ると、私は目を瞑ってかぶりついた。ぎゅっと巻いてある分、ひとくちの処理も時間がかかる。ふたくち、みくちと進むと、お祖母ちゃんが咳き込むのが聞こえた。目を開けると、お祖母ちゃんの伸ばした右手が湯呑を倒し、こたつ布団を濡らしていた。左手は喉元を強く抑えて、さらに大きく咳き込む。

 私は慌てて駆け寄り、背中をさする。真っ赤な顔をしたお祖母ちゃんが私の顔を仰ぎ見て、「のどに」と言うように口を動かした。

「無理にしゃべらないでいいから」

 私は背をさすりながら、自分の湯呑を差し出す。お祖母ちゃんはお茶の飲もうとするが、すぐに咳き込み吐き出した。いくつかの米粒と噛み砕かれた具材がお茶と一緒にこたつ布団とカーペットに散る。私はお祖母ちゃんの前ににじり寄り顔を覗き込んだ。ますます赤い顔をして、自分の首を絞めるように強く抑えている。口の中は暗くて見えない。こんな時、お母さんがいれば。

「そうだ、救急車!」

 私はスマホを取り、119を押す。

「火事ですか、救急ですか」

 すぐに男性の声が答えた。

「き、救急です」

「住所はどこですか」

 冷静な声と他人と話ができる安心感に、訊かれる質問にすんなりと受け答えができた。

「お祖母ちゃんが太巻きを喉に詰まらせて、咳き込んでいます。大きいからって切ろうとしたのを私が止めてしまって」

 状況を伝えようと早口で話す私の背を、お祖母ちゃんが叩く。次第に顔色が悪くなる中、首を力強く横に振っていた。私はそれを見て涙が溢れる。

「お願い。お祖母ちゃんを助けて」

 私は子供のように泣きながらスマホに懇願した。

「今救急隊が向かっています。お祖母ちゃんは意識がはっきりしていますか。まだ咳していますか」

「今はあまり」

「咳をするように促してください。詰まったものの取り除き方はわかりますか」

「わかりません。早く」

「救急隊が到着するまでは、未来さんが応急手当をしてください。今急いで向かっています」

 私は泣きながら指示通りにお祖母ちゃんの背を力強く叩いた。何時間もそうしていたような気がする。遠くからサイレンの音が大きくなり、近くで止まると、玄関から救急隊の人たちが入ってきた。

 私よりもずっと大きな声でお祖母ちゃんの耳元に呼びかけながら、背中から抱き上げるように大きくゆする。四度、五度と繰り返すと、口から固まりが飛び出し、お祖母ちゃんが大きく咳き込んだ。

「ああ、良かった。出ましたね」

 救急隊の一人がほっとした声で言うと、お祖母ちゃんの背を大きくさする。何度も咳き込むお祖母ちゃんの顔からは涙とよだれがこぼれる。

「お祖母ちゃん! お祖母ちゃん!」

 私は呼びかけながら顔を近づけた。皺に隠れた細くて小さな目が私を見つめる。

「念のため搬送します。まだ残っている可能性もありますので一度病院で見てもらいましょう。一緒に救急車に乗ってもらえますか」

 私が頷くのを確認し、お祖母ちゃんを抱え手際よく担架に乗せる。

「出かける前に、火の元と鍵を確認してください。慌てなくて大丈夫ですから」

 救急隊員は安心させるようにほほ笑むと、お祖母ちゃんを玄関から運び出し救急車に乗せる。私は部屋中を確認し、こたつとエアコンと照明を消す。濡れたご飯粒を踏み、靴下に貼りつくのを感じたが、取る間も惜しくコートを着て玄関の鍵を閉めた。


 病院に着いてからは、私は待合室でずっと待っていた。寒くは無いのにずっと手が小刻みに震える。七十八歳なのだ。どうして丸かじりを強要したりしてしまったのだろう。いつの間にか友達みたいに接してしまっていた節がある。六十歳近くも離れたお祖母ちゃんに無理をさせていたのだ。

 廊下の先から白衣姿のお母さんが近づき私のすぐ横に座り足を組んだ。無言でミルクティーのペットボトルを渡す。素直に受け取ると、うつむいたまま両手で包むように持つ。その温かさに少しだけ気持ちが和らいだ。

「レントゲンの結果待ちだけど、いずれにせよ今夜は一泊してもらうと思う。歳も歳だし、誤嚥性肺炎も有り得るからね」

 無言のまま小さく頷く。

 お母さんが息を吐き、私の肩を力強く抱き寄せた。

「お祖母ちゃんを、助けてくれてありがとう」

「違うの。私がお祖母ちゃんを」

「お祖母ちゃんと」

 私が謝罪をしようとすると、それを覆うようにお母さんが続ける。私が口を閉ざしたのを確認すると、私の顔を覗き込み微笑んだ。

「友達になってくれてありがとう」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。自分がどんな表情をしていたのかもわからない。肩に置いた手で私をポンポンとあやすように叩いた。

「未来と暮らしてから、見違えるくらい元気になった。昔はあんなにしゃべらなかったし、あんなに活動的じゃなかったのよ。仲の良い友達っていうのももうほとんどいなくなっちゃったみたいだしね。仕事から疲れて帰ってくると、ずっと未来ちゃんが未来ちゃんがって話してくるのよ。こっちは一分でも早く寝たいのに」

 お母さんはカラカラと明るく笑った。そして私の目をまっすぐ見つめた。

「だから、ありがとう。未来がいてくれて良かった」

 私は溢れそうになる涙を堪え、頷いた。


 救急処置室の扉が静かに開く。お母さんは顔を見せた看護師さんに頷くと、私の肩を叩き促した。

 看護師さんに案内され、カーテンの奥のベッドへ導かれる。こちらに気付いたお祖母ちゃんが体を起こそうとすると、すぐに看護師さんが「そのままで大丈夫ですよ」と全自動ベッドを動かした。

 お祖母ちゃんは私の顔を見て、顔の皺を深くした。

「ああ、未来ちゃん。ごめんねえ。面倒かけたねえ」

「そんなことない。そんなことないから」 

 私は力強く首を横に振った。

「ごめんねえ未来ちゃん。汚くしてごめんねえ」

 お祖母ちゃんは泣いていた。その涙が、その言葉が私の胸を突く。

「そんなことない。絶対ないから」

 私はお祖母ちゃんの背に腕を回し、子供のように泣くお祖母ちゃんの顔を胸に抱きしめた。お祖母ちゃんは思っていたよりもずっと、弱くて小さかった。




note公式企画に乗っかっております。


「清潔のマイルール」という​お題で、形式自由です。なのでフィクションで参加しております。
掃除とか片付けが苦手なので「清潔」が難しいです。いつのまにか「汚いのマイルール」になっている気もしますが。。。


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