幸田文は誰もが知る幸田露伴の娘であり、随筆家だ。彼女の随筆には父の姿が度々登場し、なかなか厄介そうな性格とともに相互への愛を感じる名文が多く残っている。
中でも今回取り上げるのは『台所帖』である。シリーズとしては同出版社から『しつけ帖』『きもの帖』というものが出版されているが、私は持っていない。「しつけ」も「きもの」も苦手だ。だが「台所」なら料理も好きなので話についていけるのではと思い読んだのだ。
だが、私程度の料理好きではとうてい太刀打ちできないことは読みだしてすぐにわかる。著者の台所は品があり静かで丁寧な仕事が行われる聖域である。ザクザク切った野菜をもっぱらフライパンで炒めるだけの者が、料理好きを語ってはいけない、と打ちのめされる。冒頭に取り上げた文章からも伝わるはずだ。もう少し丁寧に、前後を含めて再度紹介しておこう。
文章中に出て来る「辻さん」とは、辻嘉一という日本料理家だ。父は京都の懐石料理店「辻留」初代だそうで、「辻さん」は東京に出店されているとのこと。「辻留」を検索すると、当然のように今でもあった。現在京都の方は三代目が継がれているようだ。
なお、会席料理ではなく懐石料理だ。つまりお茶会がフルコースで行われた際に出てくる料理である。なかなか食せる機会は無いので、ご興味のある方は足を運んでみるのも良いかもしれない。
HPの情報では、ランチであれば松花堂弁当で15,000円、懐石料理コースは20,000~40,000円で食べられるらしい。私のお財布事情では、食べたら最後、向こう一か月は温めた石を腹にあて空腹を紛らわせて(これが懐石の語源だとも言われている)生きるしかなくなるのだが、おこづかいに余裕のある方は是非どうぞ。
さて、話を抜粋部分に戻そう。
私は料理は好きだが、アクのある食物は苦手だ。アクを取り除くのは意外と難しい。ほうれん草と小松菜が並んでいたら小松菜を手に取り、ほうれん草を避ける。以前、ほうれん草のアク抜きをせず使い、シュウ酸のせいで口が梅干しみたいになった。だが他のほうれん草を使った時はそこまでの事にはならなかったのだ。もちろんすべてのほうれん草を湯でこぼせばよいのかもしれないが、ほうれん草は水溶性ビタミンなこともあり、栄養を惜しんでシュウ酸まで食べてしまう。
先日、安くなっていたイチゴを大量に買い、ジャムを作った。砂糖を入れ、味を調えようと味見をしたらアクが思いの外強かった。毎年煮るのだが、アクを強く感じたのは今年が初めてである。生で食したときには感じなかったものが、煮た途端に出てくるのだ。これだからアクというやつは苦手である。
この個体差を私は感じ取ることができず、度々失敗している。だが、もっと注意深く観察していれば違いは表れているのだろう。イチゴの種類や様子、酸味の強さや、煮たたせた時に出てくるアクの量を見て判断できたのかもしれない。
プロの料理人は誠意をもって食材に向かい、癖を除去し、うまみを引き出し、滋味へと昇華する。この言葉は以前に取り上げた、バイオリニスト篠崎史紀の名言に近いものを感じる。
食材の個性にしても人間の個性にしても、よく向き合い短所を抑え、長所を伸ばすことで滋味(個性)へと昇華するのだ。これがプロフェッショナルである。
というわけで、もはや同じ土俵に立ち張り合うことは早々に諦め、アマチュアはただ著者の料理に対する態度を眺めていく。以下は鱈子(たらこ)についての文である。
たらこを「すかっと切って小深い器」に入れて食べたことがあるだろうか。正直、私の人生では無い。「すかっと」切れないのだ。まず皮が切れずに形がつぶれる。包丁が通ったと思ったら、必ず最後の皮が残る。仮にまな板の上で「すかっと」切れたとしても、そこから小皿に移すときに指で少しでも押してしまうと魚卵が飛び出してしまう。せっかくの断面が台なしである。
「すかっと」切られたたらこは想像するにいかにも美味しそうだ。だが私の包丁さばきでは生涯無理だろう。何なら、たらこを保管していたタッパーの中にマヨネーズを絞り、かき混ぜてごはんに乗せて食べる。この食べ方からは一生脱しえない。著者には決して見せられない食べ方だろう。
しかし、たらこの切り方ひとつとっても、著者の料理に対する姿勢がうかがわれる。すかっと切られたたらこが小深い器に乗っているのを想像すると、料理の一品として実に美味しそうだ。だが準備する側からすれば、たまになら良いが毎食全品この気遣いをするとなると、勘弁してほしいと音を上げてしまう。
主婦なら一度は悩んだことがあるテーマのように思う。料理は出来立てが美味しい。特に揚げ物・焼き物は、皿に移したそばから食べるのが一番だ。
だが、そんなことを言っていては自分が食べられないし、出来上がった後の鍋やフライパンを置いておくと、後の洗い物が大変だ。「できたよー」の一言で食卓に座る夫はまだしも、子どもはスマホ・ゲームから動かず、しっかり冷めてからようやく食べ始める。今では、著者のいう夫の食卓の形式の家庭が多いと思うが、以上の例のように、さらにうまさが下落している家庭も多いのではないかと想像する。
だが、逆に本書を読んでいると、娘としていかに尽くしているかが伝わってくる。読んではいないが、『しつけ帖』には掃除について等も書かれていることを考えると、家同士の結婚制度では、「娘が嫁に行く」という感覚がわかるような気がする。
幼い頃から掃除や台所、あらゆる家の事をしつけられ、育てられた娘だ。メイドと言っては聞こえが悪いが、それだけ家事をこなす娘を他の家に取られるのだ。そりゃ豪華な結納品だって送るよな、と思う。今では、こんなハイレベルな主婦は少なければ、ハイレベルな主夫だって出現している時代だ。昔に比べれば外食も一般的になり、サーヴィスを受けることも容易になった。主婦レベルは下がったもののそれが許される便利な時代になったものだ。
食べ物が溢れ、お金さえ払えば24時間コンビニで手に入る昨今、便利な分、腐ったものに触れる機会は減ったように思う。身近にも、賞味期限を過ぎたものは一切口にせず捨てる、という方がいる。訊いたことはないが、もしかしたらその人は腐ったもの見たことが無いかもしれない。
私は比較的、ものが腐っていく様を見ている方だと思う。小さい頃から、二日目、三日目の総菜の臭いをかぎ、表面のてかりと観察し、味を見ている。そのうえで、少し変だけどまだギリいける(お腹を下すことはないレベル)、これはもうNG、一度火を通して臭わなければOK、と言った判断を下してきた。直箸や直接手で触れたものからいたんでいくが、表面を削ればまだ中は無事だ、という食べ方もする。
企業の提示する賞味期限、消費期限を信じることも大切だとは思うが、それもまた人の決めていることだ。こういうレッドラインの位置をそれぞれの感覚で掴むことも重要なのではないかと思う。多少腐っていてお腹を下したとしても、そう簡単に死にはしないだろう。
さて、折角の『台所帖』なのだから、食べ物の表現をもう少し見ていこう。これからの季節、暑くなってくると食べたくなるのがそうめんである。だが最近は飽きられがちで、それを防ぐようにバリエーション豊かなつけダレや、アレンジレシピが乱立している。
だが、この文章を見れば、かつおだしの香るシンプルなつゆで、つるりと食べたくなる。
読むだけで爽やかさが伝わる文章だ。もちろん、冷やしたざるうどんは、それはそれで旨い。だがそうめんのあの細くのどごしの良く柔らかい麺が、つゆをまとって吸い込まれるあの感じは、うどんでは難しい。暑い昼にセミの音を聴きながら、キリリと冷えたそうめんを縁側で啜れば、それは最高の夏である。
また、著者もようかんについて記述していたので、是非取り上げておきたい。
著者の場合は、水ようかんだ。あの四角い煉ようかんではない。水ようかんの冷たさと甘味、のどごしの良さと程よい柔らかさを感じる。柔らかいとは言え、ゼリーとは異なるピッとした包丁の断面の美しさが目に見えるようだ。
ところで、ようかんがどうした、という方は、是非こちらの記事も読んで欲しい。私にとってようかんと言えば『陰翳礼讃』なのである。
このタイミングでリンク先を読んでこられた奇特な方には申し訳ないが、ようかんの記述をこちらにも挙げておこう。
谷崎先生、夏目先生の方は煉ようかんだ。黒く重みのあるどっしりしたようかんが塗の器に乗せられて出て来る。対して幸田先生の方は、よく冷えた水ようかんだ。爽やかな白かガラスの皿でも良いが、先生は銀の皿に乗せ、皿ごと冷蔵庫で冷やしている。成程、キンキンに冷えた器に、決して凍ることはない水ようかん。贅沢な夏のおやつである。
それにしても、どうしてこんなにもようかんを魅惑的に表現できるのだろう。
ちょうど夏を迎えるこの季節、スーパーの入口に水ようかんが並べてあった。良く冷やした水ようかんを食後のデザートに食べてみても、彼らのような素敵な表現は生まれてこない。ただ悔しまぎれに「滋味」と呟くのみである。