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わかってあげられない辛さ

圧倒的な共感力不足

 そもそも後遺症当事者の苦しみを「わかって『あげる』」という事自体が驕りなのかもしれない。「あげる」って何様よ、って言われたら、そのとおりだ。
 でもやはり、辛そうな表情や動きをみていると、心配にもなるし、力にもなりたくなる。
 自分がダメだなと思うのは、そういうとき、「そっか、つらいよね」と共感することよりも先に、「つらいならこうしてみたらどうかな」とか「これが原因でつらいのかもしれないね」とか、原因や解決方法をまず考えようとしてしまうこと。
 これは多分元々の性格が災いしているのに加え、仕事柄どうしてもそういう発想が染み付いてしまっているのも大きな原因である。それは、自分でもわかってる。でも、なかなかうまくいかない。
 結果、辛そうな家族に自分なりの言葉を投げかけたつもりが、余計に相手を辛くさせている。本人はそれを必死に隠そうとしているが、何十年も一緒に生きてきたら、さすがにその挙動の変化でピンとくる。
 そこにピンとくるのならば、最初っから私が望むような対応をしたらいいのに、という声が後ろから聞こえてきそうになる。うん。ほんとその通りだ。でも、やはり難しい。

道は遠いけど、、

 調子が良いときにはどうしても気が緩む。油断してしまう。もしかしたらこのまま良くなっていくのかな、という希望も出てくる(多分本人はなおさらだろう)。そうすると、不調になったときにすべてが否定されたようになり、受け入れるのに時間がかかるし、油断もすぐには直せない。そういうときに追い打ちをかけやすいのかもしれない。
 後遺症の改善カーブはなだらかだし、波もあることは頭ではわかっているのだが、どうしてもその波に振り回されてしまう。これも、本人はなおさらそう感じるだろうから、やはり自分は振り回されず、常に優しく寄り添ってあげないと、お互いが疲弊してしまうだけになってしまう。
 道は遠いけど、いつでも二人分の幅はある。ずっとずっと、一緒に歩いていけるように頑張りたい。



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