パクリって悪なのか?

先日、ラジオを聴いていてベテランミュージシャンのある方が話していたことが気になった。
「俺が何年も前に同じようなことやってたのに、悔しいなぁ」
細かいニュアンスは忘れてしまったが、近頃流行りの音楽に採用されていたテクニックなのか、何かチャレンジングな試みなのか、とにかくその特徴について語られた時の言葉だ。
本当に悔しく思っているというよりは、ある種の褒め言葉として発せられたようにも感じられたが、自分が既にやっていたことにもかかわらず、それがさも新しい試みをしてるかのように若いアーティストがもてはやされるのは、そう気分の良いものではないだろう。その若いアーティストが、あなたを尊敬していてオマージュしたというなら、自分は時代に先んじていたんだと胸を張ってもいいだろう。がしかし、全くそんな先人の楽曲なんて知る由もないということであれば、声高に語るのもただの負け惜しみにすぎない。

このベテランミュージシャンの指摘することが、どれほどその楽曲の本質的なところなのか、ましてやそのアイデアの採用がどれほどに創造性を必要とするものなのか、それとも全く些細な話なのか、私には判断できない。
ただ、私がその発言が気にかかったのには、その背景に「音楽は必ずしも先にやったやつが勝ちではない」という価値観が見えたからだ。もちろん、音楽制作の世界にも著作権があり、それを侵害する行為は、看過されるものではない。しかし、音楽には流行があり、時代に合った形で創作されるからこそ、売れるというのも事実であり、ただ新しいことをやったとしても、誰も評価をしてくれなければ価値はないといっても良いだろう。

私が身を置いている研究の世界では、こういった感覚は基本的にはない。
何よりも先に発表したやつが偉い世界である。どんな些細なアイデアだっていい、それがどんなチンケな論文誌に掲載されていてもよい。それが、正当な手順で正当な批評を受けて、発表されている限りにおいて、そのアイデア、その知見の提唱者は先に発表したやつなのだ。
だから、いくら流行りの研究手法があったって、俺が先にやってるだろと過去の論文を片手に言うことは、全く負け惜しみではなく、正当な主張である。それに後発の研究だって、それは単なるパクリやオマージュというのではなく、先駆的なベテラン研究者の論文があってこそ、次のステップへ進めるわけであり、そうやって先人が築いた山の上に更に高い塔を建てるという行為を繰り返すことによって、科学は発展してきた。

だから、ベテラン研究者ならこう言うべきだ、
「俺が何年も前に同じようなことやってる。けど、この研究は俺のと違ってここが新しい」と。


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