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セスナ機は世界のどこかの空の中

短い時間の長い瞬間
1 [セスナ機は世界のどこかの空の中]



菜津は窓の方に足を向けてソファに寝転がり、足首のところにクッションを2段重ねにして、つま先を空に突き刺すような感じで体勢を整える。
見るとはなしに空を見ていると、空の低い位置を小さな飛行機が東から西へゆっくりと飛んでいるのが見えた。それまではぼんやり空を見ていただけなのだけど、小さな飛行機が見えた途端、目を凝らして空を見る。すると小さな飛行機だと思いっていたのはセスナ機だと気がついた。セスナ機も飛行機の部類に入るのかもしれないが、菜津にとってはセスナ機はセスナ機で大勢の客の乗せて外国まで飛んでいく飛行機とはやはり違うと思っていた。
そのセスナ機は、一瞬カラスかと思うほど小さくてカラスが追いかければすぐに追い越してしまうかもしれないほどゆっくりと飛んで西の空に消えていった。いや、消えていったというより菜津の視界から消えたという方が正しいだろう。首を西に向ければセスナ機はまだ飛んでいるはずだ。

空は曇っているが暗くはなく、時折り青空なんかも見えたりするので、菜津は「丁度いい空だ」と思いながらセスナ機が視界から消えるのを見送った。視界から消えてしまってからは目を凝らして見る必要もなくまた最初に戻って見るとはなしに空を見ていた。相変わらずつま先は空に突き刺さったままだ。

菜津は何年か前にセスナ機に乗った時のことをある思い出していた。ラスベガスからグランドキャニオンに行くために乗った時のことだ。
菜津の他に4人ほど同乗者がいた。風の強い日でかなり揺れたが、下を見るとグランドキャニオンの岩場だらけでここに落ちたらもう生きては帰れないだろうなと思いながら雄大な景色をドキドキしながら堪能していた。
自然の雄大さに触れて思わず涙が出てくるという場面をテレビのドキュメンタリー番組で見たことがあるが、なんか嘘くさい演出だなといつも思っていたが、断層状になった岩場の小さな道を馬が歩いているのを見た途端に意図することなく菜津の目に涙が溢れてきた。あのテレビの中のことはあながち嘘じゃないんだとその時思った。

そんな中、同乗者の中で唯一夫婦で乗っていた二人が突然喧嘩を始めた。狭い機内で聞きたくなくても聞こえてくる怒号。喧嘩の原因は、旦那さんが奥さんに「おい、化粧がはげてるよ。ちゃんと化粧直しした方がいいよ」と言うと、奥さんが「もうちょっと良い化粧品ならはげたりしないんだけど、あなたの安月給じゃ良い化粧品が買えないのよ。化粧がはげるのが嫌だったらもっと良い化粧品買ってよね」と声を荒げて反撃した。それからグチグチと言い合っているのだ。聞いているとどうでもいい内容の喧嘩なのだが、本人たちは真剣なのだろう。
旅先では化粧直しもままならないというのは女性ならよくわかる話だ。化粧がはげてるくらいでぐちぐち言うなというのが菜津の意見と言えば意見になる。それにしてもグランドキャニオンという大自然を目の前にして、その雄大さに涙まで流している者もいるというのに、そんな状況下でも夫婦喧嘩は始まってしまうのだなと夫婦関係の不思議を思った。

「あの夫婦はどうしているかしら?あの調子じゃきっと離婚しただろうな」と、菜津は無責任に思った。
あの夫婦の顔はもう忘れてしまったが名前は同乗者名簿のようなものにサインをする時に菜津以外の日本人はその夫婦だけだったから覚えている。奥さんの名前が高東美涼、旦那さんの名前が高東剣志だった。古い俳優の名前のようだなと菜津はその時に思い、その名前だけが記憶の中に残っていた。

もうひとつの記憶は、ジャマイカでキングストンという街に行くために乗った時のこと。この時はコーヒーの産地でも有名な山ブルーマウンテンの上空を飛ぶと聞いていたのでとても楽しみにしていた。良い天気の日で、ブルーマウンテンの山が青々と見えた。
コーヒー好きだった菜津は「わぁ〜ここであの有名なブルーマウンテンが採れるんだな」とひとり悦に入っていたら、機長が菜津を日本人だと察して「ここの山には日本のコーヒーメーカーの農園もあるよ」と、メーカー名まで出して教えてくれた。
菜津はそんな話は聞きたくなかった。もっとファンタジーな話が良かったなと心の中で機長を恨んだ。日本人は海外で日本由来のものがあるのを喜ぶ傾向にあるようだが、菜津はそんなことはどうでもいいのだ。アメリカ人は日本に来てハードロックカフェを見て喜ぶだろうか?
それでも外面のいい菜津は「へぇ〜そうなんですか、すごい」と大袈裟に驚いてみせた。そんな女性の演技にすら気がつかない機長は得意げな顔をして親指サムズアップサインを出した。

旅で出会う人たちとはもう二度と会うことはない。街ですれ違うことがあったとしてもお互いに覚えてはいない。いい人も嫌な人も旅が終わればみんな他人だ。特定場所の一定時間の空気の中で少しだけ触れ合ったそれだけで充分だ。菜津は「旅」には最近行ってないなと少し寂しくなる。
今、東から西に飛んでいったセスナ機にはどんな人が乗っているのだろう。ファンタジックな旅の人であればいいなと菜津は思った。

時間にして20分足らずの休憩時間だった。


つづく




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