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またひとつ別の時空が動き始める

短い時間の長い瞬間
7[またひとつ別の時空が動き始める]

菜津は総合病院の消化器内科の診察室の前で文庫本を読んでいた。
もうかれこれ45分ほど待たされている。受付スタッフが「予約してないとかなり待ちます。1時間くらいは待つと思いますがお時間は大丈夫ですか」と言っていたのはあながち脅しでもなかったのだと思った。
時々痛む程度ですぐにおさまっていた胃の痛みが、昨夜は眠れないほど続いた。市販の胃薬を飲んでみても一向におさまる気配がなく、朝は一旦会社に出勤したものの、我慢しきれず会社のパソコンで胃腸科のある病院を検索して会社から一番近いこの総合病院へ駆け込んだ。
不思議なことに受付を済ませて待合室の椅子に腰掛けた途端に痛みはおさまってきた。もう診てもらわなくてもいいのではないかと思えるほど何もない。こういう現象を専門用語でなんと言うのか知らないが、以前も熱が出て病院に行って、いざ診察となったときにはもう熱は下がっていたことがある。病院に着いたということだけで人間は安心して一時的に症状がおさまるのだろうか。
菜津の座っている椅子のふたつ空けた椅子に夫婦らしい若い男女が座っている。奥さんの方はお腹が大きいようでずっと両手で下腹を支えるようにして座っている。ご主人の方が診察を受けにきた患者のようで診察番号の書かれたファイルを見るとはなしに眺めている。奥さんはしきりに「大丈夫かなぁ。大したことがないといいね」とご主人を気遣うように話している。「大丈夫っしょ。俺まだ若いし体力あるし」と強がりを言っている。ふたりの緊張が菜津の方まで伝わってくるほどこのふたりはただ事ではなさそうな雰囲気を醸し出している。
「それより、子供生まれたら住むマンション早く探さないとだな」
「駅近とか条件あるけど、キッチンが広い方がいいな。メゾネットとかにも憧れる」
「ちょっと見てみようか」
マンション情報のページでも見ているのだろう。ふたりでスマホを覗き込んで何やらこそこそと話をしている。
菜津はチラチラとその夫婦の様子を見て、「幸せそうだ。それに若い」それは最強の武器になるよと思いながらまた文庫本に戻った。

消化器内科の診察室は4室ある。
ドアの前にそれぞれの医師の名前が書かれたプレートが貼ってある。菜津はその中の茂木健というひとりの医師の名前に見覚えがあった。この病院のホームページを検索していた時に、消化器内科の優秀な医師としてトップページに紹介されていたからだ。菜津もできるならこの優秀な医師に診察してほしいと思っていたが、初診はやはり新人医師のようで診察ファイルの担当医のところには『斉藤優里亜』と、今風の名前が書かれていた。

診察室のモニターに番号が映し出される。
さっきの夫婦が反応して立ち上がる。
ご主人だけが診察室に入っていく。茂木健医師の診察室だった。
20分ほど経って出てきた。奥さんが駆け寄って「どうだった?」と心配そうに聞く。それに答える間もなく違うドアから看護師が出てきてその夫婦に「それじゃー、今後の治療方法について別室で説明いたしますのでこちらにどうぞ」とふたりを連れて行ってしまった。

菜津は、やっぱりただ事ではなかったのだなと複雑な気持ちでふたりの後ろ姿が見えなくなるまで眺めていた。

1時間15分経った頃、やっとモニターに菜津の番号が表示された。
ドアを開けて入った先には、平凡な看護師がひとりと想像していたイメージとは全く違う斉藤優里亜がいた。
斉藤優里亜がにこやかに「初めまして、斉藤です。お待たせしてすいませんねぇ。どうぞお座りになって下さい」と、まるで定食屋の気のいい店員のごとく迎えてくれた。菜津はどことなく今テレビで人気の女性芸人のひとりに似ているなと思いながら指定された椅子に座った。きっとこの人の両親は「何か」を期待してこういう名前を付けたのだろう。でも本人はその意に反して堅実に自分の道を選び医師として真面目に取り組んでいるのだろうと思う。『名前のイメージと見た目が違うよな』なんて男性陣から陰口を言われることにもしばしあるだろうが、そんなことにいちいち反応することもなく我が道を突き進んできたのではないか…短い時間に菜津はいろいろ想像した。

「じゃ〜、来週になるけど上部内視鏡検査をしましょう。心配しなくて大丈夫よ。麻酔をかけてするから苦しくないしボォ〜としてる間に終わっちゃうから。詳しいスケジュールは看護師から聞いてね」

看護師から注意事項が書かれた用紙をもらい、承諾書にサインをして病院を後にした。病院を出た途端にまた胃痛が襲ってくるのが不気味だった。
コンビニで水を買って処方された胃酸を抑える薬を飲む。すると嘘のようにスッと痛みがおさまった。それもまた不気味だった。

1時間15分待って、診察は5分程度だった。
たった5分で斉藤優里亜は私の何がわかったのだろう。


つづく


1話〜6話まではマガジン「noteは小説より奇なり」に収録してあります。


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。