見出し画像

日常の片隅にある、迷いの世界で

短い時間の長い瞬間
23[日常の片隅にある、迷いの世界で]

朝食には手をつけないまま、菜津はベッドに横になっていた。
配膳係が「失礼します。片付けたほうがいいですか、それとももう少し置いておきましょうか?」と聞いてくる。
「片付けて下さい、いつもすいません」と菜津はやっとのことで声を出す。
歩ける患者は食事が済むとトレーを自分でフロアーに設置された配膳棚に持っていくことになっている。菜津は抗がん剤治療を始めてからそれができずに、配膳係が時を見計らって片付けに来てくれている。
配膳係は医者でも看護師でもないから、菜津に対して余計なことは言わないが、きっと看護師に「今日も食べてませんでした」と報告をしているのだろう、巡回に来た看護師が「食欲ないようですね、何か食べやすいものを出すように言いましょうか?栄養ゼリー飲料なんかだと比較的に食べやすいかと思うんですが...」と提案してくる。
茂木医師は「点滴で栄養補給するという方法もあるけど、口から食べるということが大事なんですよ」と言ってくる。
食べる=吐くという図式が菜津の中に出来上がっていて、それを思うと口にものを入れる気にならなかった。
看護師の提案もあり、とりあえず次回の食事から栄養ゼリー飲料を出してもらうことにした。

「そんなこと言ったって食べれないものは食べれないですよね」
と、珍しく同室の大原さんが声をかけてきた。
「そうですね、こんなに辛いとは思いませんでした」
「私はもうあまりに辛くて先生に言って抗がん剤やめてもらいました」
「そうなんですか」と、菜津が言ったのを最後に会話が途切れてしまった。

その時、ドアをノックする音が聞こえて、斉藤優里亜医師が入ってきた。
「どう?」
「辛いです」
「辛いよね。少しお話しできる?」
「はい」
「今日はね、ご紹介したい人を連れてきたの」
「誰ですか?」
「柴田さんの入院生活に何か役に立つ情報を持ってるかもしれない人」
そう言って斉藤優里亜医師は、ドアの方に向かって手招きした。
「失礼します」と言って入ってきたのは、真面目すぎないように巧妙にドレスダウンしたスーツを着て派手でもなく、かといって地味でもない顔つきの女性だった。年齢は菜津と同じか、少し上だろうか…
 「この方はね、医療コーディネーターという仕事をしている人でね、医師や看護師には言えない悩みとかを聞いてくれて、心地よく闘病生活がおくれるようにいろいろ手助けをしてくれる人なの」
「はじめまして、突然お邪魔してすみません。わたくし高東綾乃と言います」と言ってショルダーバックから名刺を差し出してきた。
菜津はそれを受け取り薄いピンク色の名刺をじっと見た。
苗字が二重線で訂正されている。
「あっ、まだ結婚したばかりで新しい名刺が間に合わなくて不恰好でごめんなさい」と、その女性はにこやかに微笑んでいる。
「じゃ私は戻るけど、ふたりで話してみて」と言って斉藤優里亜医師は病室を出て行った。

「柴田菜津さん、もし勘違いだったらごめんなさい。高東剣志という男性のことご存知じゃないですか?」
「知らないですけど、その人が何か?」
「その男性は今の私の夫なんですけど、少し前、夫から菜津さんのことを聞きました。ご病気で入院するらしいからもし巡り会うことがあれば相談に乗ってやってくれって」
「誰だろう?会社にもそういう名前の人いなかったしな……」
「自転車でぶつかりそうになったとか、グランドキャニオンのセスナの中で会ったとか言ってました。最近では、カフェで偶然に」
菜津は少し考えて、「あぁ」と声をあげた。
「あなたがあの人の再婚相手?」
「そうです」
菜津のあまりのストレートな言い方に綾乃は可笑しくて笑った。
「いろんな患者さんの担当をさせてもらってるのですが、斉藤医師からあなたの名前を聞いてやっと巡り会えたと思いました。迷惑でなければいろいろお手伝いさせてもらいたいのですが」
菜津は、不思議な縁を感じた。それは運命的な出会いとかいう大袈裟なものではなく、普通に暮らしている人と人は何らかの繋がりがあるんだろうなという曖昧な縁で、それは菜津だけのものではなく誰にでもある縁なんだと思った。ただそれに気づくか気づかないかの違いだけなのではないかと。
「不思議ですね」
「不思議です」
「その、高東さん?お元気ですか、入院する前にカフェでお会いした時に、前の奥さんとのこととか子供のことでいろいろ悩んでらしたみたいだったから」
「大丈夫です。新しい家に引っ越して子供も引き取って内面はいろいろあるでしょうが、何とかやっていますよ」
「そうですか、それは良かった」
その時、同室の大原和江が苦しそうに咳き込む声が聞こえた。
綾乃が「大丈夫ですか、看護師さん呼びましょうか?」と駆け寄った。
大原和江は一口水を飲んで落ち着いたようで、「ありがとうございます。大丈夫です」と小さな声で言うのが菜津の耳にも聞こえた。
綾乃が菜津の方に戻ってきた。
それを見計らったかのように菜津は綾乃の目を真剣に見て言った。
「高東さん、早速相談したいことがあるんですが」
綾乃は菜津のただならぬ真剣な目に少しびっくりしながらも冷静に答えた。
「はい」
「少し長くなりますが」
「そうですね、この後もうひとり担当の患者さんに会わなければなりません。明後日はどうですか?その時にゆっくりお伺いします」
「わかりました。明後日までに自分の考えをまとめておきます」
「はい。では今日はこれで失礼します」
「旦那様によろしくお伝えください。奈津はまだくたばってないから、あなたもがんばって…と」
「わかりました。しっかり伝えます」
初めて会った人物なのに、菜津は綾乃に会って朝の憂鬱が少し紛れたような気がした。気が合うとかではなく綾乃は病んでる人の心を穏やかにする何かを持っているのかもしれない。それは仕事のテクニックのひとつなのか、それとも内面から滲み出てくるものなのかわからなかったが、入院して初めて菜津は希望みたいなものを感じた。

綾乃はいろんな患者と接してきているが、これほど明るく力強い患者は見たことがなかった。心の中はきっと不安でいっぱいなのだろうが、泣き言を言うでもなく縋り付くわけでもなくしっかり前を見ている目をしていると思っていた。相談ごとは聞かなくても大体想像がついていた。何とか菜津の願いを叶えてやりたいと思って病室を出て、次の患者さんの病室へ向かった。

菜津は残り少ない時間であとどのくらいの縁を見つけることができるだろうと思いながら、高東綾乃の名刺を見つめてた。


つづく

*1話から23話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。

あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている30代の複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか……
病気、薬物中毒、離婚、隣で起こっていても不思議ではない物語は徐々に佳境を迎えつつある。
何も知らぬ者、すべてを知った者、人生を悟った者、夢を見続ける者それぞれが少しずつ近寄っていく。
そして、それぞれの運命の日を迎えようとしている。

主な登場人物
柴田菜津:東京で働く女性
高東剣志:東京で働く男性
吉岡美涼:剣志の別れた妻
高東綾乃:剣志の現在の妻(美涼の高校の後輩でもある)
美佳:剣志と美涼の子供
茂木:菜津の担当医師
斉藤優里亜:菜津の担当医師



読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。